ずっと私のことを責めてるんでしょ
振り返れば、そこには柳が立っていた。彼女は意地悪な笑みを浮かべて、美古のことを見下ろしている。
「美古ちゃ~ん。あたしにいじめられてるって、山川にチクったんだよねー?」
冷たい声だった。
「〝いじめ〟ってどういうことか、教えてあげる」
柳がガラガラと勢いよく倉庫の戸をしめていく。
何をされるのか理解し、美古は慌てて立ち上がって戸へ向かった。しかし美古が入口に辿り着く頃には戸は閉まっていて、開けようとしてもびくともしなかった。どうやら外側から棒のようなものを差し込まれて、固定されてしまったらしい。
「開けて!」
きゃはは、と外から高い笑い声が聞こえた。その笑いはどんどん遠ざかり、柳の足音も消えていく。
――閉じ込められた。
美古は、冷たい倉庫の中で立ちすくんだ。
倉庫の中は静まり返っている。窓は高い位置にある小さなものだけ。夏の湿った空気がじっとりと肌にまとわりつく。
美古は戸の前でしばらく立ち尽くしていたが、そのうち、諦めが襲ってきて力が抜けて、膝を折った。
床に座り込む。冷たいコンクリートの感触がスカート越しに伝わってきて、ぞくりと寒気が走った。
体育祭の準備時間中はスマホをいじる生徒が多いので、午後からスマホを先生に預ける決まりになっている。だから、外への連絡手段がない。
美古は、助けを呼ぶこともできずじっとしていた。
夕暮れが落ち、夜が更けていく。
どれくらい時間が経ったか分からない。誰かがここに来る気配もない。暗がりの中で自分の呼吸音だけが響く。
どうして、こんなことに。
美古は膝に額を押しつけ、小さく息を吐いた。閉じ込められた倉庫の冷気が、少しずつ身体の熱を奪っていくようだった。
こういう時、美古は、過去に思いを馳せてしまう。
あの時ああしていれば、あの時ああしていなければ、もしかしたら、今こんなことにはなってなかったんじゃなかいかと。考えても仕方のないことをぐるぐると頭の中で繰り返してしまう。
そもそもあの時ああしていなければ、青森に来ることもなかった。
嫌味を言われたり、白い目で見られたりすることもなかった。
馴染めないクラスの中で、孤独に過ごす必要なんてなくて、母と兄と三人で、家に帰ったら兄の作った温かいご飯が待っている。
(私が、罪を犯したから……)
ウァァ、と後ろで赤子の泣き声が響き続けている。
「ねえ、お前、ずっと私のことを責めてるんでしょ」
うぎゃぁと肯定するような声がした。
「私のこと、本当は幸せにしてやるもんかって、思ってるんでしょ」
背中に乗っている赤子の重みが増していく気がした。
「私が、お前の父親を殺したから」
返ってくるのは泣き声ばかり。
幼い泡の子は、言葉を喋れない。
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「えっ、ウケる。まだいるんだけど」
柳が美古のいる体育倉庫を再び訪れたのは、夜が明けた翌朝のことだった。
美古は、半ば眠りに落ちかけていた頭を上げる。
倉庫の隙間から差し込む朝の光が、ぼんやりと白く揺れていた。
おそらく柳は、他の人に見つかったら困るため、朝一番に確認だけしておこうと思ったのだろう。
柳は戸の隙間から顔を覗かせ、にやにやと笑う。
「目ぇ見えねぇから、入口の場所も分かんなかったんだべ?」
からかうような口調で言って、くすくすと笑いながら、ゆっくりと近づいてくる。
返事をしない美古に苛立ったのか、柳はそのままつま先で美古の脇腹を蹴った。
「先生にチクったら、もっとひでぇことしてやっからね」
彼女は吐き捨てるように言い放ち、踵を返して歩いていく。
美古は何も言えなかった。喉が凍りついたように動かず、心も空っぽだった。燃え上がるような感情は生まれてこない。怒りというよりも、疲弊していた。
ただ、ぼんやりと思った。
――柳さんみたいな人、消えちゃえばいいのに、と。
その瞬間、背後から赤子の泣き声が響いた。それまで静かだった倉庫の空気が震えて、風が巻き起こる。積まれていたボールや鉄棒、跳び箱の部品が次々と軋み、音を立てながら崩れ落ちていく。
「え……?」
柳が困惑したように振り向き、頭上を見上げたその刹那、どんっ、と凄まじい音を立てて、山積みの用具が一気に柳の上へと落ちた。
「きゃぁぁぁあ!」
甲高い悲鳴が倉庫内に響く。
柳の体は床に叩きつけられ、足が跳び箱の板の下に挟まれた。
「痛い! 痛い! 痛い!」
泣き叫ぶ柳に、どうすることもできず、美古はただ、呆然とその場に座り込んでいた。あれだけの重みが体に乗ったら、少なくとも骨折はしているだろう。
風が止み、泣き声も静まる。世界から、全ての音が消えたようだった。
その後のことはよく覚えていない。
震える足で先生を呼びにいって、たまたま朝早くからいた唯一の先生、話したこともないその人に、体育倉庫に怪我人がいると伝えて学校を出た。
人の波に逆走する形で、登校中の生徒とすれ違う。赤子は無邪気に笑っている。
その時、生徒たちの中から、噂話の声が聞こえた。
「ねぇ、聞いた? この前、道路に赤ちゃんが段ボールに入れて捨てられてたんだって。若い女の人の遺書と一緒に。何か、交通事故で夫を殺しちゃったとか何とか書いてたんだって」
「あ、それ私もママから聞いた。もう皆知ってるよ。捨てられた道路の近くの店に警察が入って聞き込み調査してたって」
「遺書に、子供を頼みますって書いてあったらしいけど」
「えー? 他人任せにしないで自分で育てろよ」
あはは、と笑う生徒たちの隣で美古は、祖母の客であった、痩せ細った女性のことを思い出していた。夫の声を聞いて、絶望したような顔をしていた、あの人のことだ。
――どうやら美古の人生で初めての口寄せは、取り返しのつかない失敗に終わったらしい。
一つひとつの出来事は小さくても、積み重なると大きくなっていく。
その日から、美古は学校へ行くのをやめてしまった。
朝になっても布団から出られない。学校から電話がかかってきても出られない。出る気がしない。
カーテンの隙間から射し込む光が、床の上に細い線を描いている。時計の針が午前の九時を指しても、部屋の空気はまだ眠ったままだった。
食卓の上には、昨夜のままの茶碗が並んでいる。冷めた味噌汁の表面には薄い膜が張り、誰も手をつけないまま時間だけが過ぎていく。冷蔵庫のモーター音が低く唸っている。
居間のローテーブルの端には、手をつけかけて止まった編み物が置かれていた。
糸玉が転がり、床の上で細い糸を引きずっている。途中まで編まれたショルダーバッグの形は歪なまま、針は糸に刺さった状態で止まっていた。
美古はぼんやりとそれを見つめながら、膝を抱えて座っていた。
柳は入院になったらしい。自分のせいだと思うと、胸が引き裂かれそうだった。
自分は、人を不幸にすることしかできない。生きている価値がない。
背負っている赤子の重みが増していく。
もう何も考えたくない。もう何もしたくない。
外の雨音や、通り過ぎる小学生の子どもたちの声が遠くに響いても、動く気がしない。
そんな日々が、何か月も続いた。
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