お前、許さねぇからな
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夏めいた空気の中、本格的に体育祭の準備が始まった。高等部では、全学年の女子が合同でダンスパフォーマンスを披露することになっており、午後の授業はほとんど体育館での練習にあてられている。
男子は組み立て体操、女子はダンスという男女別れたプログラムである。学年合同授業と聞くと正一の顔が思い浮かぶが、練習場所が別なので、正一が戻ってきていたところで会うことはないだろう。
体育館では、生徒会の女子がマイクを手に取り、拍子をとりながら指導している。『もう一回いくよー! 右、左!』という声が反響し、体育館の床とスニーカーが擦れる音が重なって響いた。
美古はその喧噪から少し離れた場所で、壁際に腰を下ろして体育座りをしている。両手を膝にかけ、少し開かれた体育館のドア越しに外のグラウンドをぼんやりと見やる。
グラウンドには、男子がいる。ひょっとするといなくなった正一がひょっこりと現れているのでは、などと空想して、目で探してしまった。
「古瀬さん、久しぶり」
その時、突然、すぐ傍で声がした。
顔を上げると、そこにいたのは去年の担任である山川先生だった。
「最近はどう? 色々、大丈夫?」
美古が他の見学組みと少し離れた位置で一人でいるのを見て、寂しいだろうと思って声をかけてくれたのだろう。気遣いは嬉しいが、そもそも美古は寂しいなどと感じていない。こういう時、一人でいることには慣れているからだ。
「大丈夫です」
「先生、古瀬さんのことが心配なんだ。困ったことがあったら、何でも言ってね。今は違うクラスの担任だけど、美古さんのこと忘れてないから」
「……ありがとうございます」
山川先生は、美古のことを見ているようで、見ていない。目が見えづらい可哀想な子である、という分厚いフィルターを通して見ている。だから過剰に心配して、特別扱いして、助けてあげなきゃと思っているのだろう。
正直、居心地が悪かった。
ダンス練習が一旦休憩に入ると、体育館内の空気が緩む。
談笑しながら歩いてくる女子の集団が、美古の前に近付いてきた。その中に、一際目を引く派手な姿の女子――柳がいる。体育祭の時期だからか髪を染めていて、髪色が明るくなっているから目を引いた。
柳は隅に座る美古を見つけ、ふっと口角を上げた。
「美古ちゃん、目ぇ見えないからって堂々と練習サボれていいな~」
柳の視線を追うように、周囲の女子たちも一斉に美古を見た。どうやら柳は、あの日の放課後、美古が柳たちに歯向かったことを根に持っているらしい。獰猛な獣の標的にされた気がして、心臓がきゅっと縮こまるような心地がした。
山川先生が柳の姿を見つけて眉を顰める。そして、注意するように言った。
「柳さん。その髪色、派手すぎない? 染めるのは校則違反よ」
「体育祭の期間だけだべさ~。みんなやってらし、別によくね? ウザ。今の担任はなんも言わねのに」
柳は巻いた髪の毛をくるくると指に絡め、ちらりと美古を見てから、再び山川先生の方へ視線を戻す。そして、唇の端に薄い笑みを浮かべて、わざと挑発するように言った。
「ていうかセンセー、今も美古ちゃんにつきっきりなんですか? 担任やめたのにカワイソー」
「……可哀想ってどういうこと? 柳さん、あなた、さっきから古瀬さんに失礼よ」
「別に悪い意味で言ったんじゃねーし」
明らかに教師を下に見ているような態度に、山川先生の声が少し強くなる。
「悪い意味でしょう。先生、知ってるんだよ。去年柳さんが古瀬さんのこといじめてたこと」
「……は? いじめ?」
柳の眉がピクリと動く。
「いじめって何それ? うちら、なんもしてねーけど? 美古ちゃんがそう言ったってこと?」
「本人がいじめだと思えば、それはいじめなのよ」
早口でまくし立てた柳に山川先生が言い返す。横で聞いている美古が口を挟む隙はなかった。
嫌な予感がした。最悪だ。いじめを訴えたのは自分ではないのに、これでは柳は、チクられたと思うに違いない。
「ふーん……」
柳の目がすっと細まり、氷のような冷たさを帯びる。その鋭い視線が、美古を射抜いた。
「お前、許さねぇからな」
周囲には聞こえないほど小さな声だったが、その言葉に込められた敵意は鋭く、美古の肌を刺してくる。柳が、他のお気に入りの女子達に向ける声音とは全く違う、威嚇するような声だ。
美古が柳を怖いと思う理由は、この豹変っぷりにもある。
「柳さん、待ちなさい!」
柳は山川先生の制止も無視して、軽く手を振って歩き出す。
「練習始まっから~」
そう言って気怠そうに笑いながら、彼女は元の列へと戻っていった。
翌日は、朝から冷たい雨が降っていた。
空が鉛のように重たく、窓を叩く雨音も一日中止む気配を見せない。体育祭の練習は中止になると思われたが、男子は第二体育館を使って組み立て体操の練習を行うことになり、女子も予定通りダンス練習を続けることになった。
午後、美古は体育教師に呼び止められ、ダンスで使ったポンポンを倉庫にしまうよう頼まれた。
あまり必要のない雑用だが、ずっと見学しているのも気の毒だと思われたのだろう。教師の善意を否定する理由もなく、美古はその頼みを素直に引き受けた。
女子たちから回収した色とりどりのポンポンを籠にまとめて片手に抱え、もう一方の手で杖を持つ。
美古は、体育館の隅にある倉庫へと、ゆっくりとした足取りで向かった。
倉庫の前に辿り着き、ドアを横に開く。中はひんやりとしていて少し埃っぽく、古いマットや跳び箱の匂いがわずかに鼻をついた。
そのまま一歩、足を踏み入れようとした瞬間――背後から、突き飛ばすような強い衝撃が加わった。
声を上げる間もなく、美古の身体は前のめりに傾き、抱えていた籠が宙を舞う。ポンポンが床に散らばる音と同時に、美古の身体は倉庫の冷たい床へと倒れ込んでいた。




