隠したいことは、言わなくていいよ
その時だった。
「柳さんたちの言う通りだよ」
振り返ると、教室の隅でずっと絵を描いていた小城が、鞄にスケッチブックを乱暴に詰め込みながら立ち上がった。
「くだらない悪口なんて、まともに聞かなくていい。時間の無駄だべさ」
小城は柳たちの方を鼻で笑うと、すたすたと美古の隣まで歩いてくる。
「細けぇこと気にして人の陰口しか喋れねぇなんて可哀想だな。脳みそまでその変な化粧水でふやけてんじゃねぇの? 帰ろ、美古ちゃん。こんな肥溜めみたいなとこさ、一秒もいたくねぇわ」
「な、何よあんた! キモ城のくせに!」
「キモい絵ばっか描いてんの知ってんだからな!」
小城は怒りを露わにして立ち上がる柳たちを完全に無視して、美古の手をぐいと引っ張った。美古は呆気にとられながらも、小城の小さな手に引かれるまま、教室を出ることになった。
勢いよく閉めた扉のすぐ外には、まだ涙を溜めたままの沢村が、呆然と立ち尽くしていた。
小城はピタリと足を止めると、沢村の顔を見つめて、いつものぶっきらぼうな声のトーンで言った。
「沢村さんも、一緒に帰ろう」
沢村は一瞬、驚いたように目を見開いた。沢村は一瞬、美古を見た後視線を泳がせ、躊躇いがちに自分の鞄の紐をぎゅっと握りしめる。
「わ、私……でも……」
「いいから、行くよ。お腹空いたし、帰り道で何か食うべ」
小城はそう言って、今度は沢村の手も優しく包み込むように引いた。沢村の目から、堰を切ったようにぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。けれど、小さく頷いて付いてきてくれた。
学校の重苦しい空気から抜け出し、校門をくぐる。
夕暮れの道を、三人で並んで歩いた。影が長く伸びるアスファルトの上で、沢村の鼻をすする音と、小城の「明日からの体育祭の練習、まじでサボりてぇなぁ」というぼやきが響いていた。
学校の敷地を抜けてしばらく歩いた頃、それまで俯いて涙を堪えていた沢村が、ぽつりと言葉を漏らした。
「美古ちゃん、ごめん……」
沢村の目から、堰を切ったようにポロポロと涙が溢れだす。
「私、美古ちゃんに酷いこと言ったのに。無視したのに、私のこと庇ってくれて……」
「……ううん。私も、隠してたこと、あったから」
「あの時だって、美古ちゃんは私を助けてくれたのに、私、怖くなって酷い態度取っちゃった。本当に、最低だよな……」
「……気にしてないよ。……嘘、ちょっと気になったけど」
「……だよね。本当にごめん……」
沢村は袖口で何度も涙を拭った。そんな二人のやり取りを、小城は何も言わずに静かに見守っている。
夕暮れ時の街路樹の下、三人の間に少しだけ沈黙が流れた。
美古はアスファルトに伸びる自分の影を見つめながら、ずっと心の中に閉まっていた秘密を口にしようと、小さく息を吸い込む。
「……沢村さん、私が、隠してることだけど――」
「いいよ。言わなくていい」
沢村は美古の言葉を遮るように首を振ると、涙の滲んだ目で、優しく微笑んだ。
「隠したいことは、言わなくていいよ。美古ちゃんが言いたくなったら、その時、言ってくれたらいい」
沢村は、美古のことをそれ以上深堀りしなかった。かつてのように無理に踏み込もうとするのではなく、今の美古のありのままを受け入れようとしてくれているのが伝わってきて、美古の胸が、じんわりと温かくなっていく。
「……ありがと、沢村さん」
「なーに湿っぽくなってらわけ。ほら、あそこの店さ入るよ!」
前を歩いていた小城が振り返り、呆れたような声を出しながら、道沿いにある一軒の定食屋を指差した。
夕食時の香ばしい匂いが漂うその店に、誘われるようにして暖簾をくぐった。
ガラガラと引き戸を開けると、見知った店員が出迎えてくれる。
奥のテーブル席に並んで座り、それぞれ定食を注文した。運ばれてきた温かいご飯を口に運ぶうちに、沢村の顔にもいつもの明るい笑顔が少しずつ戻ってくる。
「そもそも、委員長は、誰かやらなきゃいけなかったでしょ」
「そーそー、先生も困ってたべ」
「沢村さんがやってくれて、皆助かったと思うよ」
「てか、小城さんの絵はキモくないよね!?」
「小城さんより、絵がうまくなってから言ってほしい……」
「いいよ二人とも、別に言われ慣れてるし」
さっきの柳たちの悪口に文句を言いながら、腹を満たして笑い合う。
充実した夜だった。
その日から、三人は学校でもよく一緒にいるようになった。
休日も、小城の好きなイラストレーターの展示を見に遠出したり、互いの家に遊びに行ったり、他愛のない、けれど美古にとっては眩しいほどに愛おしい日々が、新しく紡がれていった。
沢村のおすすめだという駅前の小さなケーキ屋に寄って、三人で一番大きなパフェを囲みながら、学校の男子のくだらない噂話に小城が容赦のない毒舌を吐いて笑い合う。沢村の家に集まった時には、流行りのダンス動画を無理やり踊らされそうになって美古が真っ赤になって固まり、それを見た小城がゲラゲラと笑いながらスケッチブックにその情景を書き留める、なんてこともあった。
またある日は、沢村が「体育祭、うちらのチームで絶対柳たちに勝つよ!」と意気込んで、放課後の誰もいないグラウンドの片隅で二人を巻き込んでバトンのパス練習を始めた。運動が苦手な美古がよろけるたびに、小城が「まじでサボりてぇ」と愚痴をこぼし、沢村が「ほら、二人ともシャキッとして!」と笑いながら二人を引っ張っていく。
美古の家にも、二人は当たり前のように遊びにやってきた。小城は部屋にある怪しげな骨董品を面白そうにスケッチし、沢村は「美古ちゃんの部屋、なんだか落ち着くなぁ」と言って畳の上をごろごろと転がった。
どんなに不気味な噂を立てられようとも、二人だけは学校の廊下で美古の姿を見つけると、遠くからでも「美古ちゃん、おはよう」と大きく手を振って挨拶してくれた。
そんな日常の温かさが、正一がいなくなって冷え切りがちだった美古の心を、少しずつ満たしていった。
美古は忘れていた。
幸せな日々というものは、いとも簡単に崩れ去ってしまうということを。




