死相が出ているよ
美古が心の底で予感し、あえて言葉にせずにいた恐怖が、サチの冷徹な一言によって形を成した。
周囲で次々と起こる、不可解で禍々しい現象の数々。自分やクラスメイトを喰らおうと這い寄ってきたあちらの世界の存在は、明らかにその距離を詰めてきている。
「サチさん、子供の前で煙草を吸うのはやめてください」
正一が眉をひそめて制した。
「何だい、あんたも昔は吸ってただろう」
「子供の前で吸ったことはありません」
サチは正一の言葉につまらなそうに鼻を鳴らすと、灰皿に煙草を押し付けて火を消した。
美古は、正一が優等生そうな見た目とは裏腹に未成年喫煙をしていた過去があることに驚いたが、それよりも、気になることがある。
このままでは、周囲が死ぬ。
そう聞いて、一瞬、小城や沢村の顔が浮かんだ。
もう自分に大切な存在などいないと思っていた。でも自分は意外にも、一度は自分と対等に話してくれたクラスメイトたちに、死んでほしくないと思っている。
「どうしたら……」
「知らないよ。あんたがやったんだろう」
サチが突き放すように吐き捨てた。
美古はしばしの間、言葉を失っていた。
しかし、しばらくして決心し、椅子から立ち上がる。積み上がった荷物で埋もれたテーブルに両手をつき、深く頭を下げた。
「お願いします。どうすればいいのか教えてください。私にできることなら何でもします。もうこれ以上、何も失いたくありません」
震える声に、切実な痛みが混じる。
サチはテーブルを指先でトントンと叩きながら聞き返してきた。
「できることって。例えば?」
美古は一瞬考え、改めて今いる部屋を見渡した。
至る所に物が溢れ、悪臭さえ漂い始めている部屋。
他に物音はしない。ここに来るまでの歩き方からして、彼女は足が悪い。他に身寄りのない一人暮らしなのだろう。うまく家事もできないはずだ。
「片付けをします」
「……え?」
想定外の答えだったのか、サチはぱちりと一度、瞬きをした。
「見たところ、この家はゴミ屋敷ですが。私なら、半日あれば綺麗にできます」
張り詰めた沈黙が部屋に流れる。
次の瞬間、サチは堪えきれないといった風に、弾けるような笑い声を上げた。
「あんた、失礼だねえ! 人の家をゴミ屋敷って! あはははははは!」
老婆の笑い声が、埃っぽい部屋に高らかに響く。
そして。
「いいよ。拙いが、自分にできることを提供しようとするその姿勢は気に入った。正しい口寄せの方法を教えてやる。しかしあんた、学校もあるだろう。勉強はした方がいい。改めてこの週末にうちに来なさい。その代わり、この家の家事は全部やってもらうよ」
サチは、それまで見せていた険を少しだけ緩めた。
「あと、あたしが煙草を吸っても何も言わないこと。どうも、少しでも吸わない時間を作るとイライラしちゃってねえ」
「……サチさん、それは依存しすぎでは」
「はいはい、あんたは相変わらずうるさいね」
正一の小言を、サチは鬱陶しそうに手で追い払った。そして、テーブルの隅に置かれていたメモを無造作に引き寄せると、番号を書き記した。
「これがこの家の電話番号だ。来る日は電話しな」
サチはその紙を美古に手渡すと、少し目を細めて美古を凝視する。
「それとあんた。若いのに、死相が出ているよ」
美古の体温がすっと下がる。
戸惑いの視線を返す美古をよそに、サチは「まあ、死相が出ていたって出ていなくたって、人間いつ死ぬか分からないものだけどねえ」とさもどうでもよさそうに呟き、ペンをペン立てにさした。
「あたしに死相が見えてるってことは、あんたのばあちゃんにも見えただろう。心配させたんじゃないのかい」
「……おばあちゃんは、今行方不明で……」
「え?……ああ、何だ。別に気にしなくていいよ。あの人はたまにいなくなるから。放っておいてもすぐ戻ってくるだろう」
サチも、軽い口調で警察と同じことを言う。
美古は容易には信用できず、黙り込んで俯いた。
壁に掛かった古い時計は、すでに深夜を回っている。
「もう電車も出ていないだろう。今日は泊まっていきなさい。明日の始発で帰るといい」
「え……でも」
「さすがに、若いのを夜に外に追い出すほど鬼畜じゃないよ」
ぶっきらぼうな言い回しだった。けれどその奥に、微かな温情も感じる。
この人はきっと優しい。だから正一は、美古をここに連れてきたのだ。
その日は結局、言われるがままに、サチの家に泊まることになった。
薪で沸かすタイプなのだろうか、時折どこかで爆ぜるような音を立てる古い風呂に入り、芯まで冷え切っていた体を解きほぐした。
案内されたのは、リビングの荷物の山を少しだけ避けて作られた、一人分の寝床だった。
正一は二階の部屋で眠るようで、風呂から上がればお別れだった。
美古は、薄い布団に身を沈め、そっと瞼を閉じる。目を瞑った時、脳裏に広がったのは、闇に浮かび上がるあの夜桜だった。風に吹かれて舞い踊る、淡い光の粒が広がる。
不思議と、この日は悪夢を見なかった。
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翌朝、始発列車に揺られ、美古たちはむつ市を目指した。
ガタゴトと規則正しく響く走行音と、硬い座席の振動。正一の隣で、寝不足の頭を窓枠に預けてぼんやりと外を眺めていた美古は、ふと、その瞬間に遭遇した。
流れていく建物と建物の隙間から、強烈な光の束が赤子の目に飛び込んできたのである。
「……朝日」
暗い影を落としていた家々の輪郭が、一瞬にして鮮やかな朱色に縁取られていく。
地平の境目から溢れ出した朝日が、景色の全てを柔らかな黄金色に塗り替えていった。
美しかった。
目が見えなかった頃、朝はただ少し空気が温かくなる時間でしかなかった。けれど今、網膜を灼くようなこの光は、あまりにも圧倒的で、強烈な重みを持っているように感じられた。
美古はその光景に、ひっそりと感動を覚えていた。




