どうせろくでもない女なんだろう
――実は美古には、正一にまだ言っていないことがある。それは、美古の最大の秘密だ。しかしそれを、今後も誰かに言うつもりはなかった。
正一が立ち止まり、夜空を埋め尽くす桜を見上げた。
「美古ちゃん。その子がいなくなったら、君はまた、目が見えなくなるだろう」
「……はい」
「俺は元々目が見えるから、目が見えないというのがどういう感覚なのか分からない。でも、居場所を失ってからの美古ちゃんの世界は、ずっと暗くて悲しいものだったんじゃないかなと思うんだ」
美古は何も答えなかった。
光は、あった。けれどその光は、また失われてしまった。いつもそうだ。美古の大切なものは、いつも消えてしまう。
「この世界は怖いものばかりじゃない。いずれまた目が見えなくなっても、君が想像するべき世界は、暗闇の中じゃなくて、こういう光の方なんだよ。それを覚えていてほしい」
正一の声は夜風に混じって、美古の耳に優しく届いた。
赤子の瞳に映る鮮やかな景色を、ぼんやりと眺める。怖いもの、嫌なもの、悲しいもの。そんな現実のすぐ隣に、こんなにも優しく輝く場所がある。
そこがまた、絶望しきれなくて、残酷だと思った。
美古はまだ、この世を切り捨てられない。
公園の華やかな喧騒を離れ、街灯の間隔がまばらになった住宅街の奥。正一に連れられて辿り着いたのは、生い茂る庭木に半ば飲み込まれたような、寂れた佇まいをした古い一軒家だった。
正一がインターホンを鳴らすと、奥からゆっくりとした足音が響き、一人の老婆が姿を現した。足腰が弱いのか、出てくるまでかなりの時間を要していた。
「こんにちは、サチさん。お久しぶりです」
正一が、サチと呼ばれたその女性に向けて、穏やかに会釈する。サチは深い皺の刻まれた顔を上げ、まずは正一を、そして次に、品定めをするような目付きで隣に立つ美古を凝視した。
「……それが、例の?」
「はい。古瀬美古ちゃんです」
「あの女の娘かい。ということは、どうせろくでもない女なんだろう」
吐き捨てられた言葉は、明らかな敵意を含んだものだった。さらに、サチは忌々しげに顔を歪めて続ける。
「口寄せを教えたって、男と逃げるんじゃないのかい」
美古は、冷たい水を浴びせられ、心臓が凍りついたような感覚に陥った。
この人は母を知っている――そう確信したからだ。
美古が立ち尽くしていた、その時。
「ろくでもない人かどうかは、関わってから決めてください」
正一がはっきりと、凛とした声で言い返した。
「少なくとも僕から見たこの子は、優しい子ですよ」
正一が、美古を迷いなく肯定する。美古は、その言葉が嬉しいとともに、何だか恥ずかしくて、きゅっと自分の手を握った。
一瞬、張り詰めたような沈黙が流れる。遠くから、夜鳥の鳴き声が聞こえた。
サチは正一をしばらく見つめていたが、やがて呆れたように、ため息混じりに言葉を吐き出した。
「そりゃ、あんたから見りゃいい子だろうよ」
そして、美古たちに背を向け、足をやや引き摺りながら、薄暗い廊下の奥へと歩き出す。
「いいよ。入りな。茶は出さないからね」
もてなす気など微塵もない様子だが、美古を家の中へ招き入れることだけは、許してくれるようだった。
美古は、正一の背中に隠れるようにして、おそるおそる家の中へと足を踏み入れる。
靴を脱ぎ、冷え切った冷たい廊下の感触を足裏に感じながら、サチに続く。
案内されたのは、散らかったリビングだった。
古い新聞紙や、中身の判然としない小瓶、色褪せた服が至るところに散乱している。床には細かいお菓子の欠片のようなゴミが落ちていた。
美古は、中央のテーブルを囲む椅子の一つに、促されて腰をかけた。
「あたしの名前はサチ。あんたのおばあちゃんとは、腐れ縁でね。昔、口寄せ巫女の真似事のようなこともやっていた」
引退した口寄せ巫女。どうしてそんな人と、正一が繋がりを持っているのか。
美古は疑問に思って正一をちらりと見たが、目が合わないので、サチに視線を戻す。
「あの、正一先輩とは、どういう……」
「古い仲だよ。それについては正一が隠したいと言っているから、教えられない」
美古の問いは、ばっさりと切り捨てられた。
サチは火のついていない煙草を指に挟み、探るような目でこちらを射抜く。
「あんた、週末はこっちに来れるのかい」
「……え?」
「聞いたよ。中途半端に降霊させたんだろう。扉が閉じられていないんだって? 愚かだねえ」
サチの細められた瞳は、まるでこちらの過去まで見透かすような不気味さがあり、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「色んな人に迷惑をかけて、さらに迷惑をかけるのかい」
ライターの火が小さく爆ぜ、紫煙が天井のシミに向かってゆらりと立ち昇る。サチはその煙の向こう側から、美古の背中、あるいはその肩の辺りを、忌々しげに凝視した。
「沢山悪いものが憑いてるねえ……」
吐き出された煙が、美古の視界を白く濁らせる。
サチは椅子に深く背を預け、煙草から口を離して呆れたように言った。
「あんたも、あんたの周りも、このままじゃ死ぬよ」




