夜桜を見に行こう
「私が、幽霊に取り憑かれてるって言ったら信じる?」
視界の隅に映る沢村が目を見開いた。
沢村は、美古の発言を飲み込めない様子で、狼狽えたように声を震わせる。
「……何それ。ふざけてるんだべか?」
「ふざけてないよ。私、幽霊に取り憑かれてて、その幽霊と目を共有しているの」
「何言ってるの! こんな時に冗談言わないで! 私、真面目に聞いてるんだよ!?」
叫ぶような沢村の声が、美古たち以外には無人の廊下に虚しく反響した。彼女は、縋るように握っていた美古の掌を、汚いものに触れたかのように乱暴に振り解く。
「怖い、何なの、一体」
さっき起こったことも、美古の発言も受け止めきれないようで、混乱からかまた泣き出した。
沢村はそれから、何も言わずに美古と共に荷物を取りに教室へ戻り、一瞬美古の方を見たが、その後は逃げるように、一人で廊下へと出ていった。
信じてもらえなかった。当たり前だ。分かっていたことなのに、こんなにも胸が痛い。
昇降口に下りると、知っている人物が立っていた。正一だ。
美古は驚いて息を呑む。放課後になってすぐ、彼には、今日友達と肝試しに行くから先に帰っていいと伝えておいたはずだった。
薄暗い空間に佇む正一の姿は、どこか不気味さを纏って見える。美古ではなく、誰か他の人を待っているのだろうかとも思ったが、こんな時間まで他の生徒がいるはずがない。
「……私のこと待ってたんですか?」
「うん、ごめんね。美古ちゃんのことが心配だった」
どうしてわざわざ。心配だなんて、親でもあるまいし。などと様々な思いが頭に浮かんだが、正一に申し訳なさそうな微笑を向けられ、何も言えなくなってしまった。美古は上履きを脱ぎ、靴を履き替えてから、彼の隣に並ぶ。夜の重みが、二人の間に横たわっていく。
「肝試しって、どこに行ってたの?」
「校舎内をぐるぐるしてただけです」
「さっき、泣いてる女の子が走って帰っていったけど、何かあった?」
「……おばけが出ました」
春にしては冷たい風が、美古たちの間を吹き抜けた。
「最近、学校内で、変な話が多いんです。幽霊を見たって。日中も、何だか嫌な感じがするし」
「そうだね。学校は幽霊が多い場所ではあるけれど、前まではこれほどいなかった」
一瞬、沈黙が走った。
「……私のせいでしょうか?」
「どうして?」
「この子に寄ってきてるんじゃないかなって……」
以前よりもその存在感を増し、次第に大きくなっていく赤子の霊がそこにいる。赤子は今、こちらの心情など知らぬ様子で、すんと泣き止んでいる。
「その子というよりは、美古ちゃんが中途半端に口寄せをしたからだろうね」
正一が、美古の発言を否定した。
「口寄せをした後に、向こう側に繋がる扉を閉じられてない。美古ちゃんを中心に、幽霊がどんどん出てきている」
「何でそんなこと分かるんですか?」
「見えるからだよ。霊感が強いって言ったでしょ」
そう言って、正一は腕時計を確認した。
「美古ちゃん、今日ってまだ元気ある?」
「正直、元気というわけではないですけど……どうしてですか?」
「夜桜を見に行こう」
美古はきょとんとした。
夜桜。見たことがない。そもそも、花見という行為自体、つい最近まで目の見えなかった美古にとって馴染みのないものだ。
戸惑う美古を、正一が引っ張っていく。美古は躊躇いながら、正一と一緒に駅へ向かった。
明日も学校があるし、宿題もある。他の人に誘われていたら断っていただろう。でも、他でもない正一だから付いていった。正一は、何の考えもなしに突然こんなことを言う人ではないと知っているから。
下北駅から快速に揺られて、乗り換えも挟み、片道三時間近くかかる長旅だった。
揺れる夜の列車内で、窓の外に湾を見た。時折遠くに見える街灯が、水面に心細い光の筋を落としていた。
弘前駅からさらにバスに揺られ、正一が美古を連れてきたのは、弘前公園だった。
辿り着いた公園の外濠を目にした瞬間、美古は驚いた。
夜の闇を背景に、ライトアップされた数千本の桜が、燃えるような淡紅色に輝いている。水面には散り始めた花びらが絨毯のように敷き詰められ、幻想的な花筏を作り出していた。
視力を得てからというもの、美古が見てきたのは寂れた日常の風景ばかりだった。でも、今目の前にあるのは、現実のものとは思えないほど純粋な美の世界である。
「俺が好きだった人もね、目が見えなかったんだ」
隣を歩く正一がぽつりと言った。桜に目を奪われていた美古は、正一の声にはっとしてそちらを見る。
「……そうだったんですか?」
「だから、できることなら、この景色を見せてあげたかった」
正一は少し前を歩きながら、美古が人混みで迷わないよう、時折振り返って歩調を合わせてくれる。
ゆっくりと、満開のソメイヨシノが咲き乱れるボート乗り場付近へと向かった。
岩木山のシルエットが、ライトアップされた桜越しに巨大な影となって浮かび上がっている。水鏡となった濠には、逆さまになった桜の並木がどこまでも深く沈み込み、この世とあの世の境界が曖昧になっていくような錯覚を覚えた。
背中の赤子が、空から降り注ぐ桜吹雪に小さな手を伸ばすようにして、きゃっきゃと嬉しそうにその光景を見つめていた。何千何万という花弁が舞い落ちる中、泣くのをやめ、うっとりとした吐息を漏らしているようだった。
「……私、本当はこの子を産みたかったんです」
幻のような景色に惑わされたかのように、美古は、いつの間にか本音を零していた。「うん」と、正一がその思いを否定することなく、相槌をうつ。
「こんな風に、喜んでくれる場所に連れていきたかった」
「うん」
「でもそれは、許されない思いでした。この子は、誰からも望まれない子だったんです」
言いながら、少しだけ泣きそうになった。
誰かに思いを、叶わなかった願いを打ち明けるというのは、こんなにも胸が苦しいことらしい。




