変な音聞こえたよな?
子供が駆けるような軽やかな足音だった。その音は次第に巨人の足音のような大きさになっていき、さらには、湿った肉が板張りを叩くようなベチャベチャという不快な音へと変貌していく。
「……何だよ、この音」
個室のドアを蹴った男子生徒の声が、恐怖で裏返った。
全員、すぐにトイレの外へと走り出る。
「変な音聞こえるよな?」
「う、うん。あたしも……」
彼らが顔を見合わせ、頷く合っていた――その時。
トイレの奥から、歪んだ四肢を蜘蛛のように蠢かせている、顔のない物体がこちらへ這い寄ってくる。その姿は、美古の目にはっきりと映った。
美古よりも早くその物体を知覚したらしい生徒の一人が、声を上げる。
「何だこれ! 逃げろ!!」
誰かの悲鳴を合図に、生徒たちは一斉に蜘蛛の子を散らすように走り出した。パニックに陥り、もはや仲間を思いやる余裕などもないらしく、お互いにぶつかりあいながら逃げ惑っている。美古も、つられるようにしてその後を追った。
「ひっ、待って、みんな!」
最後尾を走っていた沢村が、足をもつれさせてよろめく。そのすぐ隣を走っていた男子生徒が、自分を追ってくる恐怖に耐えかねたように、彼女を乱暴に突き飛ばした。
「邪魔だ、退けよ!」
「きゃあっ!」
短い悲鳴とともに、沢村が派手に転がった。突き飛ばした男子生徒は振り返りもせず、先へ先へと消えていく。他の生徒たちも、彼女を見捨てて我先にと角を曲がっていった。
生徒たちの足音が遠ざかり、ベチャベチャという執拗な這行音がすぐ傍に迫ってくる。
美古は一瞬、逃げ去った背中を追おうとした。しかし、腰を抜かし、動くことができない様子の沢村を見捨てることができなかった。美古は、来た道を戻るように、彼女の元へと駆け寄る。
「沢村さん、立って! 早く!」
「……足、が、腰が抜けて……動けない……」
沢村の瞳は恐怖で揺れ動き、過呼吸気味に肩を震わせている。
背後の暗い廊下から、腐敗した泥のような臭いが立ち込めてきた。天井を、壁を、床を埋め尽くすようにして、顔のない不気味な影たちが美古たちのすぐ数メートル先まで迫っている。それが沢村に向かって鎌のような腕を振り上げた、その瞬間だった。
『ぎゃあああああああああああ!!!!』
美古の背中から、空気を震わせ、校舎の窓ガラスをきしませるほどの絶叫が炸裂した。
美古の背に張り付いている赤子が、火がついたように泣き叫ぶ。自分たちの領域を侵すものを一切拒絶するような、凄まじい威嚇の咆哮だった。
一瞬にして、廊下の空気が凍りついた。
迫ってきていた異形たちが、目に見えない壁に叩きつけられたように、一斉に動きを止める。彼らは赤子の泣き声に曝されるたびに、煙のようにその輪郭をかき消され、耳を塞ぐような仕草をしてのたうち回る。
しばらくして、あれほど執拗だった怪異たちは、その泣き声に怯えるように、闇の奥へと音もなく退いていった。
あんなに騒がしかった廊下に、不自然なほどの静けさが戻ってくる。聞こえるのは、美古の荒い吐息と、沢村のひきつったようなすすり泣き、そして美古の背中で次第に小さくなっていく、赤子の鼻を啜る音だけだ。
美古は、恐怖で硬直したままの沢村の手を、強く握りしめ、落ち着けるために囁いた。
「……大丈夫。もう、行ったから」
窓の外ではすでに、陽が沈み、深い群青色の夜が校舎を飲み込もうとしている。
明かりをつけ始めた外の電灯が影を落とす廊下で、沢村は美古の手をぎゅっと握りしめたまま、立ち上がった。
逃げ去った生徒たちの足音はもう聞こえない。ただ、風が古い窓枠をガタガタと揺らす音だけが、やけに大きく響いている。
「……ねぇ、聞いてもいいべが」
沈黙を破った沢村の声は、こちらを疑うように、ひどく震えていた。
「美古ちゃんって、ほんとは目ぇ、見えてる?」
美古は思わず目を見開いた。沢村は、美古の目を、まっすぐに見つめ返していた。
「さっき、私が突き飛ばされて転んだ時、美古ちゃん、こっちに駆けつけてくれたべ。少しも迷わずに、私のところまで……」
「それは、音がしたからだよ」
美古は言い訳を口にしたが、沢村は力なく首を横に振った。
「転んだのが私だって分かってたし、いくら音がしたからって、あの時、美古ちゃんは私の少し前を走ってたんだよ……振り返って、正確に駆け寄るなんて、目ぇ見えねぇ人には無理だ。だって、ずっと目ぇ瞑ってらぁのと一緒なんでしょ?」
美古は、これ以上ごまかせないと思い、黙り込む。
「……美古ちゃんって、何者?」
沢村の声には、恐怖というよりも、説明のつかない神秘に触れた時の畏怖のようなものが混じっているように聞こえた。
「さっきの幽霊たちも、みんな、美古ちゃん見て逃げてったべ。まるで、美古ちゃんに怯えてるみたいに」
突きつけられた問いに、美古はしばらく、何も答えられなかった。
握りしめた沢村の手のひらの冷たさを感じながら、暗く沈んだ廊下の奥をじっと見つめる。




