ワタ シ を 見 ……て
最寄り駅の改札で小城と別れ、美古は一人、住宅街へと続く、街灯の乏しい坂道を登っていた。
アスファルトのひび割れや、風に揺れる裸の木の枝の影が、不気味なほど鮮明に網膜に焼き付く。
不意に、背後で濡れた布を引きずるような、粘り気のある音がした。
嫌な感じがした。
美古は視線を正面に固定し、歩を早めた。
あの日の口寄せの失敗以来、よくないものが寄ってきているのが分かる。まるで、ひび割れた器から漏れ出す生者の熱を嗅ぎつけて、暗がりの住人たちが集まってくるようだった。
街灯が一つ、ジジッ……と不吉な音を立てて明滅する。その瞬きが止まった一瞬の闇の中で、視界の端に、電柱の陰から身を乗り出す、あの長い髪の女が見えた。
「……ワタ シ を 見 ……て」
女の顔は、熟しすぎた果実の実のように割れ、そこから無数の白濁した瞳がこちらを覗き込んでいる。
美古は悲鳴を飲み込み、全速力で駆け出した。しかし、その途中で急に、足が凍りついたように重くなる。見下ろすと、影の中から伸びた無数の黒い手が、美古の足首に絡みついていた。
抗おうと足を振り上げた瞬間、視界がぐにゃりと歪んだ。平衡感覚を奪われ、美古の体は虚空に放り出される。
ガシャッという大きな音と共に激痛が走った。美古は、道端に打ち捨てられた錆びた古い自転車に、右足を深く打ち付けていた。鋭利に突き出た金属の破片が、制服のソックスを切り裂き、白い肌を無慈悲に抉る。
熱い液体が溢れ出し、足首を伝い落ちる感触がした。血の香りに呼応するように、周囲の闇がわっと沸き立つ。電柱の影、民家の隙間、側溝の底。あらゆる暗がりから、形を持たない影たちが、獲物を見つけた獣のように美古の足元へ這い寄ってくる。
その時だった。
『あああぁぁぁあああああ』
鼓膜を突き破らんばかりの、凄まじい絶叫が聞こえた。それは、この世のものとは思えないほどの声量の、赤子の泣き声だった。
美古の背後に乗っている赤子が声を上げたのだ。衝撃に突き動かされ、美古の身体が前のめりに揺れる。
さっきまで美古を喰らおうと喉を鳴らしていた影たちが、一斉に、弾かれたように後退していく。
長い髪の女が、耳を塞ぐような仕草をして身を捩る。その輪郭が、赤子の泣き声に曝されるたびに、霧が散るように激しく掻き乱されていく。無数の白い瞳も、地を這っていた黒い手も、熱湯を浴びせられたかのように縮れ、暗闇の中へと戻っていった。
赤子の泣き声は、なおも激しさを増していく。自分を傷つけようとする外敵への、拒絶反応のように。
やがて、耳をつんざくような咆哮は、次第に弱々しい、鼻をすするような音へと変わっていく。
美古は、恐怖で硬直したまま、自分の背中のすぐ後ろに漂う赤子の気配を肌で感じていた。
美古は震える指先で、血の流れる右足をもう一度強く押さえた。
何とか立ち上がって、足を引き摺りながら家へと向かう。
玄関の重い引き戸を閉め、鍵をかけた瞬間、張り詰めていた糸がぷつりと切れた。
冷たい廊下に膝をつき、そのまま倒れ込む。肺の奥まで吸い込んだ夜の澱んだ空気と、右足の傷口から脈打つ鈍痛のせいで、泥のような疲労感に飲み込まれていく。薄れゆく意識の端で、自分の荒い呼吸の音だけが、やけに大きく反響していた。
どれくらい時間が経っただろうか。
沈みゆく意識の底で、誰かの気配を感じた。
微かな衣擦れの音と共に、ひやりとした清潔な水の感触が傷口に触れる。大きな、けれど酷く慎重な手が、美古の震える足首をそっと支えていた。傷口を拭い、薬を塗り、包帯を巻いていく。
誰? と、掠れた声で問いかけようとしたが、唇は鉛のように重く、ただ熱い吐息が漏れるだけだった。その人物の顔は判然としないが、手当をしてくれていることだけは分かった。
ふわりと、線香のような匂いが鼻をくすぐる。その心地よさに身を委ねるように、美古は、深い、深い眠りへと落ちていった。
次に目を開けたとき、視界に飛び込んできたのは、見慣れた天井の木目だった。
身体を動かそうとして、右足に走った鈍い違和感で動きが止まる。恐る恐る布団をめくると、パジャマの裾から覗く足首には、驚くほど丁寧に、真っ白な包帯が巻かれていた。
美古は、自分が玄関ではなく、自室のベッドの上にいることが不思議だった。
鍵がかかっていたのに、誰が自分をここまで運び、手当てをしてくれたのか。
カーテンの隙間から差し込む朝の光が、埃の粒子を白く照らしている。
枕元には、小さな水の入ったコップが置かれていた。




