安易に降霊をしてはいけないよ
「毎日、こうして残って描いてるの?」
「んだよ。うちの親、忙しくてさ。いつも観光客の相手ばっかしてら。早く帰ると手伝わされっから、勉強してら~って嘘ついて残ってんの」
小城の意外なおどけた言い方に、美古はふふっと笑った。
小城は自由帳を閉じながら、少し恥ずかしそうに口にする。
「……実はさ、今ネットのプラットフォームでイラストの依頼もらって、有償で描いてんの」
美古は驚きで目を見張った。高校生で、そんな風に自分の絵をお金に変えているなんて、予想もつかなかったからだ。
美古にとって仕事というのは、遠い世界のものだった。世の中には本当に色んな働き方があるのだと感心する。
「もっと上手になって、いっぱい依頼受けたいの。好きなこと仕事にすんのって難しいんだろうけど、将来的にはそうなれたらいいなぁって。だから勉強もしながら、絵もがんばってら」
小城はへへ、と気恥ずかしそうに笑った。
「……かっこいい」
美古は思わず呟いた。
自分にはなかった生き方だ。幼い頃から目が不自由で、できることの選択肢が狭く、だから挑戦も選択もしなかった。赤子の力を借りて、ようやく目を得たときでさえ、何をしたいか考えもしなかった。それだけに、小城のひたむきさが、美古の目には眩しく映った。
小城は少し意外そうに言う。
「そんな風に言ってくれるの、古瀬さんくらいだよ。多分こんなこと言っても、変なことしてる人としか思われねえから」
「……そうなの?」
「んだ。あたしいつも絵ぇ描いてるから、クラスの子らには必死すぎでみっともねって冷笑されてる」
「が、頑張ってる人を笑う人なんて放っておけばいいよ。何言ったって、その人たちは小城さんみたいに、絵でお金稼げたりしないんだから」
美古の必死な言葉に、小城はぽかんとした後、嬉しそうに口元を緩めた。
「ねえ、美古ちゃんって呼んでも、いいべか?」
「えっ……呼び方は、何でもいいよ」
急な申し出に驚きながらも、美古は小さく頷いた。
名字より下の名前で呼ばれる方が、何だかぐっと親密になったように感じられる。小城から、距離を縮めたいと意思表示をされたようで嬉しかった。
本当は、こちらも小城のことを名前で呼んでみたかったけれど、何だか気恥ずかしくて、結局最後まで切り出せなかった。
いつの間にか、教室内は夕暮れの橙色で染まっていた。
長話をしても小城の絵の練習を邪魔してしまうだろうと踵を返そうとして、美古は立ち止まる。
ふと思い出したのは、昨日の正一の言葉だった。
『今から作ればいいよ』――と、彼はそう言った。あの時は、簡単に言ってくれる、と思ったけれど。待っているだけではきっと何も変わらない。
美古は俯いたまま、喉の奥から絞り出すように、慎重に言葉を押し出した。
「こ……小城さんって、スポーツ観戦とか興味ある?」
「え?」
後ろから不思議そうな声が返ってくる。小城の分厚い眼鏡の奥の瞳が、丸く開かれた。
「知り合いが、バレーの試合のチケット三枚当たったらしくて。……もしよかったら、一緒に来ないかなって」
「……いつだべ?」
「今週の日曜日」
「ふーん……」
小城は小首を傾げて、少しだけ視線を外した。考えるように唇を押し結んだ後、美古に問いを投げ返してくる。
「知り合いってさ、この前、食堂で一緒にいた男の人?」
「あ……うん」
そういえば小城は、以前、美古と正一が食事をしていた時に、美古たちのことをじっと見ていた。
「この前あたしも、たまたまあの食堂にいたんだ。美古ちゃんの前に座ってた男の人さ、まだ合併前の制服着てだべ? 珍しくて、つい目に入って」
「……あれって合併前の制服なの?」
「うん。大きくは変わんないんだけどね。統合の時にちょっとだけデザインが変わって、今の代の人はだいたい旧式の制服、返納してらのさ。だから……まあ、珍しいっていうか……ちょっと変わってるっていうか……」
小城の語尾が、独り言のように小さくなっていく。
何やら考え込んでいた様子であった小城は顔を上げ、美古をまっすぐ見た。
「行くよ、一緒に行こう。……人体の動きって絵の参考になるし」
小城の声は軽やかで、思った以上に前向きだった。
美古は緊張が解け、ほっと胸を撫で下ろした。人を誘うというのは、こんなに簡単なことだったらしい。
小城と別れて、校舎を出る。空が、熟しすぎた果実が潰れたような、毒々しいまでの朱色に染まっていた。
今日は、昇降口に正一がいない。正一はたまに体調を崩すそうだ。いない時は、気にせず帰っていいからと言われている。
帰り道、美古の影がアスファルトの上に細長く引き伸ばされ、まるで見知らぬ何かの触手のように足元に纏わりついている。遠くの電柱の上からカラスの鳴き声が聞こえる。何だか不気味な夕暮れだった。
美古はしばらく歩いて、それに気付いた。
住宅街へと続く道の角にある、古い電柱の傍に、何かがいた。
西日を背に受けているはずなのに、その輪郭だけが周囲の光を吸い込んだように、不自然に暗い。腰まで届くほどに長い髪が、風もないのに微かに揺れ、その人物の顔の半分を覆い隠している。女だった。しかし、その足がない。
美古の脳裏に、祖母の声が、警告の鐘のように鳴り響いた。
――『美古ちゃん、安易に降霊をしてはいけないよ』
いつもは穏やかな祖母が、あの時ばかりは白濁した瞳を厳しく見開いて、私の手を強く握りしめたのだ。
――『中途半端な扉ば開ければ、よぐねぇものが寄ってくる。暗闇の底さいる連中は、光の出口ば探して、おめぇのことば見つけ出してしまうんだぉ』
美古は反射的に視線を自分の足元へ落とした。
見てはいけない。一度でも目を合わせれば、向こうに気付かれるかもしれない。恐怖が、背中からじわりと這い上がってきた。
心臓の鼓動が、どくどくとやけにうるさい。
美古は歩幅を広げた。女の横を通り過ぎる瞬間、空気の密度がぐにゃりと歪み、鼻を突くような、古い湿布薬と土が混じったような臭いが鼻腔をかすめた。
早足で電柱の影を追い越した瞬間、背中を冷たい針でなぞられたような悪寒が走る。
振り返ってはいけない。もし振り返って、あの長い髪の隙間から、血の通わない瞳が自分をじっと見つめていたとしたら――。
美古は逃げるように、夕闇に溶け始めた帰り道を駆け出した。
背後で、カラスが一際高く、嘲笑うような声を上げていた。




