勉強熱心だね
翌朝外へ出ると、肌に触れる空気がやや暖かく、昨日までの突き刺すような冷たさが少し和らいでいた。雪の隙間から、黒いアスファルトが覗いている。
今日も学校かと思うと、足が鉛のように重かった。
でも、あと少しで春休みだ。新しい年度が始まれば、あの嫌な女子生徒、柳たちとも別のクラスになれるかもしれない。
耐えろ、耐えろ、耐えろ――頭の中で唱えるようにしながら、重たい足を一歩ずつ前へ運んだ。
朝の光を纏った通学路には、多くの雪解けの水たまりがある。登校してくる生徒たちが、それを避けながら歩いている。
「あ、美古ちゃんおはよ~」
登校中、もうすぐ校門に辿り着くというところで唐突に横から声をかけられ、思わず顔を上げる。
笑顔でこちらに手を振ってくるのは、昨日一緒に廊下を掃除した女の子だった。――確か、名前は沢村と言っただろうか。彼女は別の友達と並んで歩いている。美古には軽く挨拶を投げかけただけで、そのまま楽しげに会話を続けながら通り過ぎていった。
「……お、おはよう」
不意を突かれて返事が遅れる。自分に向けられた挨拶など、もう何ヶ月もなかったからだ。美古が慌てて返した声に、沢村はちらりと顔だけ振り返り、ぱっと笑顔を見せて手を振り直してくれた。
たった一人と、ほんの短い挨拶を交わしただけ。けれどそれだけで、長い間無視され続けていた美古の、学校に入る前の緊張は少し軽くなっていた。
教室に入る。今日はいつもと様子が違った。柳はこちらを見ようともせず、まるで関心を失ったかのように机の上に座って友達と話している。
山川先生と仲違いしたことで、ネタが尽きたのか、あるいは、ただ飽きたのか。
視線を窓際の一番後ろの席に向ける。昨日助けてくれた小城は、今日も変わらず一人で自由帳に向かっていた。肩を小さく丸め、鉛筆を走らせる横顔。小城だけが、教室のざわめきから切り離された世界にいるように思えた。
放課後、掃除の時間がやってきた。美古は授業が終わるとすぐに立ち上がり、廊下の掃除班に混ざった。
今日の持ち場は窓拭きだ。渡された雑巾で窓ガラスを拭いていく。掃除班の生徒たちは嫌な顔ひとつせず、美古を自然に受け入れてくれた。その雰囲気に少し救われる思いがした。
教室を出たことで、柳たちの嫌な視線からも逃れられて、ほっと胸をなで下ろす。教室を出て歩いていく山川先生が、一瞬だけこちらを振り返った気配がした。気まずそうな顔をしていた。美古はその視線には気付かないふりをして、ただ黙々と雑巾を動かした。
掃除が終わると、生徒たちが次々と荷物をまとめて帰っていく。騒がしさが止み、廊下もしんと静まった。
美古は、自分も帰ろうと鞄を手にして、ふと教室の隅に視線をやった。窓際の一番後ろ、小城が今日も机に広げた自由帳にシャープペンシルを走らせていた。カリカリと紙とペン先が擦れる音が聞こえる。
お礼が言いたいと、そう思った。でも、いきなり話しかけたら迷惑だろうか。
小城はいつも一人で、休み時間も誰かと騒ぐことなく机に向かっている。一人が好きなのかもしれない。
美古はしばし迷った末に、杖を軽く突きながら、小城の席へ歩み寄った。
「こ……小城さんって、いつも何描いてるの?」
声をかけてすぐ、小城が驚いたように顔を上げた。長い前髪が揺れ、一重の瞳が一瞬大きく見開かれる。
その顔を見て、すぐに恥ずかしくなった。急に話しかけて、気持ち悪がられたのだと思ったからだ。やはり無理にこんなことしなければよかったと、後悔の念が襲ってくる。
同時に、小城の机の上を見て驚いた。その机の上には、予想以上に整った線で描かれた漫画風の絵が広がっていた。人物が生き生きとしていて、表情や動きまで伝わってくる。絵に詳しくない美古でも、直感的にうまいと感じる絵だった。
「……あたしが何か描いてるって、分かるの?」
小城が、戸惑ったように尋ねてくる。
絵の方に気を取られていた美古は、慌てて顔を戻して言葉を繋いだ。
「う、うん。勘違いされやすいんだけど、完全に見えないわけじゃなくて……。あと、音とかで、何となく」
小城はしばらくじっと美古を見つめた後、視線を自由帳に落とし、小さく呟いた。
「……びっくりした。古瀬さん、他人にキョーミない人だと思ってたから」
小城から見た自分と、自分から見た自分との乖離を感じた。
人に興味がないというわけではない。けれど確かに、この学校に来てからずっと俯きがちで誰とも喋らない美古は、他者からそう捉えられてもおかしくはない。
小城が自由帳のページをぱらぱらと捲る。そこには漫画のコマのように、女の子や男の子の表情、手や足といった人体のパーツがびっしりと描き込まれていた。
「細けえとこまでは見えねぇと思うけどさ、一応これ、人間の絵の練習なの。元々は風景画の方が得意で。でも、人間も描けたら、絵の幅ひろがるべなって思って」
軽い訛り混じりの声で説明する小城に、美古は素直な気持ちを口にした。
「……すごい。勉強熱心だね」
美古の言葉に、小城は少しだけ唇をゆるめて微笑んだ。彼女には笑顔が似合うと強く感じる、チャーミングな表情だった。




