いつ戻ってくるのですか
美古の視界から、部屋の景色が剥がれ落ちた。代わりに映ったのは、ひっくり返った車と、血に染まった地面と、底なしの闇。誰かが自分の首を絞めているような圧迫感。肺が潰れ、口の中から錆びた鉄の味がせり上がってくる。
「お前、何で、生きてる」
美古の口が勝手に動く。
「どうして俺が死んで、お前だけ生きて、幸せそうに我が子を抱いているんだ」
目の前に座る女性に向けて放たれたのは、恨みの言葉だった。彼女の顔が恐怖で引き攣る。その腕に抱かれた赤子が、弾かれたように泣き出した。
赤子の泣き声が鼓膜を叩くように、ガンガンと激しい頭痛がした。
美古の意識が急速に遠のいていく。
誰かが体の中に入り込み、内側から肉を食い破ろうとしているように思えた。指先が、自分の意思に反して、目の前の女性の首へ向かって長く伸びていく。
逃げようとしても、四肢が動かない。自分の魂が、真っ黒な泥の中に沈み込んでいくような感覚がした――その時だった。
「美古ちゃん! しっかりしろ、美古!」
激しい衝撃とともに、世界が揺れた。
肩を強く掴まれ、前後に激しく揺さぶられる。
「戻ってこい!」
正一の叫び声が、暗闇を切り裂くようにして頭に届いた。
パチンと糸が切れるような音がして、体の中から黒い何かが強引に剥がれ落ちた。
美古は激しく咽せ込みながら、畳の上に突っ伏した。口の中には、まだ吐き気をもよおすような土の味が残っている。
恐る恐る目を開けると、そこには元の、少し線香の匂いがする祖母の部屋があった。
「美古ちゃん、大丈夫?」
正一が、焦ったような顔で美古の肩を抱きかかえている。
美古は弱々しく頷きながら、震える手で自分の喉を触った。今しがたまで、他人の殺意が身体に宿っていて、その余熱がこびりついている気がしてならなかった。
前を見ると、女性は赤子を抱きしめ、腰を抜かしたままガタガタと震えていた。
美古が呼び寄せたのは、彼女の愛したかつての夫ではなかった。暗闇の底で蠢く、救いようのない恨みの欠片。綺麗な頃の夫ではない。
「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……」
女性が震える声で謝罪を口にする。
それは美古への謝罪ではなく、おそらく――
「私の運転であんなことになったのに、生きていてごめんなさい……」
美古が降霊させた夫への、後悔の念だった。
正一が間髪入れずに口を挟む。
「違います。本来、霊というものは恨みだけが拡張して表れやすい。この子が降ろしてきたのはその恨みの部分だけで、きっとそれが全てではありません。この子の降霊はまだ未熟で、降霊した魂が浄化されていなかった。あれが生前の旦那さんの本心というわけでは……」
正一は、それらしいことを言って励まそうとしているのであろう。必死に場の空気を塗り替えようと、美古の肩を抱いたまま、必死に言葉を紡いでいる。
しかしその言葉の数々は、女性の心には響いていないように見えた。彼女の横顔からは一切の生気が失われている。絶望の淵に立っているかのような顔で、「はい……」と力なく呟いた。納得の返事ではなく、もはや何も聞き届ける余裕がないというような、弱々しい声だった。
美古はその隣で、何も言えずに口を噤むしかなかった。まだ喉が熱く、声を出すのが怖かった。
部屋に、泣き叫ぶ赤子の声だけが、無慈悲に鳴り響いている。
結局、女性は美古が淹れた茶を最後まで飲まなかった。彼女は幽霊のような足取りで、泣き続ける赤子を抱え、闇の深まり始めた玄関へと消えていった。
ひどく喉が乾いていた。正一の誘いで、美古は最寄りのコンビニまで飲み物を買いに行くことになった。
正一と歩道を並んで歩く。夜のむつ市は静かで、電灯の明かりがところどころに灯っているだけだった。海から吹いてくる風は少し湿り気を帯びており、潮の匂いが微かに鼻をくすぐる。
正一は美古に歩調を合わせてくれている。
「そういえば美古ちゃん、日曜って暇?」
静かな夜道の中、不意に問いかけられる。
口寄せが失敗した美古が落ち込んでいるのを見かねてか、随分と明るい声で話しかけてくれた。
祖母のいない広い家に一人で暮らす日々で、予定など入るはずもない。毎日が空白のまま過ぎている。
首を縦に振ると、正一が続けた。
「バレーの試合鑑賞のチケットが三枚当たったんだ」
バレーという単語を聞いて、一瞬、言葉に詰まった。
「三枚……」
「うん。美古ちゃんの方で誘えそうな人がいたら誘ってみて。俺は誰でもいいから」
「私、青森に友達なんていないですよ」
「今から作ればいいよ」
……簡単に言ってくれる。
人付き合いに不器用だからこそ、今から作ればいいなんてあっさりと言える彼の無邪気さが少し眩しかった。
コンビニでオレンジジュースを買ってから祖母の家に戻り、門の外で正一と別れた。軽く手を振って去っていく彼の背を見送り、建付けの悪い扉を押し開ける。
長い廊下で、柱時計が時を刻んでいる。カチ、カチ、と静寂を区切る音がやけに大きく響いた。祖母が住んでいた頃は温もりを感じられた家も、今では空気が冷たく、広すぎる静けさが美古を包み込む。
今日は寝る前に入浴を済ませ、髪を乾かした。ドライヤーの音が止むと、屋敷の静けさが戻ってきて不気味だった。
美古が寝室に戻ろうとしたその時――二階へ向かう階段の方向から、何かが動いたような音がした。
美古は一瞬、立ち止まった。
(誰かいる……?)
疑ったが、すぐにそんなわけがないと思い直す。どうせ、建物が古い故に軋んだだけだ。心を落ち着かせて寝床へ向かう。
今日もまた一人だ。




