いつ戻ってくるのですか
彼女は、少し色褪せたブラウスの裾を所在なげに弄んでいた。以前の彼女はもっと若々しかったように思う。けれど今の彼女は、頬が不自然に痩せており、魂が抜け落ちてしまったかのような危うさを持っている。
風が吹き抜け、彼女の肩にかかる髪を激しく揺らした。その時、彼女の大切そうに抱えていた薄い毛布の塊が、わずかに動くのが見えた。よく見れば、その腕の中に、安らかな寝息を立てる小さな赤子がいた。
彼女の前を通らなければ家に入ることができない。
美古は、おそるおそる彼女に声をかけた。
「あの……どうされましたか」
その問いかけに、女性はぎこちない動きで首を後ろへ回し、美古を振り返った。焦点の定まらない、酷く乾いて見える瞳だった。
「イタコさん、知りませんか」
早口で、縋るような声が飛んできた。
「この家にいたイタコさんです。以前、お世話になったんです。どうしても会わなきゃいけないんです」
美古は背後に佇む家を一瞥してから答えた。
「……おばあちゃんなら、今はいません」
けれど、女性はその答えを拒絶するように、さらに言葉を捲し立てる。
「どこへ行ったのですか。お願いします、あの人に会わせてください。どこに行けば会えるのですか」
女性の語気が強まり、必死さを感じた。
美古が言葉を詰まらせ、思わず一歩身を引いたその時、隣にいた正一が、そっと彼女の前に出るようにして声を放った。
「どういったご用件ですか? この子の祖母は、今少し体調を崩して入院しておりまして。立ち話も何ですから、用件なら僕たちが伺いますが」
女性は一瞬だけ正一を見つめたが、すぐに落胆したように深く肩を落とした。張り詰めていた糸が、ぷつりと切れたような落胆だった。
「口寄せをしていただきたいのです。どうしても、この子を一度だけ、彼に会わせたくて……」
その答えに、しばしの沈黙が走る。
女性の腕の中にいる子は、亡くなった旦那との間の子らしい。
夕日に照らされた彼女の姿は、とても疲れ果てているように見えた。彼女は確か、遠く離れた町から来ていたはずだ。産後間もない体で、幼い子を抱え、新幹線を乗り継いでここまで辿り着くのがどれほど大変だったか。
彼女の虚ろな瞳を見て、美古の胸に同情心が芽生えた。その目は、兄を亡くし、光のない世界でただ泥のように生きていた頃の、自分自身の目と同じだった。
「……遠くから来られたのですよね。お茶くらいなら出せますので、少し休んでいってください」
美古は、かつて祖母が自分にしてくれたように、彼女を家の中、客間へと案内した。
美古は慣れた手付きでお湯を沸かし、茶葉を用意する。背後では、女性が畳の上に力なく座り込み、腕の中の赤子を愛おしそうに、けれどどこか悲しげな眼差しで見つめていた。
「イタコさんは、いつ戻ってくるのですか?」
「……分かりません」
「……そうですか。ご高齢でしたものね……」
女性がぽつりと、独り言のように呟いた。湯気の向こうで、彼女の目から一筋の涙が溢れ、赤子の頬に落ちる。
美古は、無言でお茶を差し出した。一瞬、女性の震える手に手が触れた。冷たかった。
重たい空気の中、 美古はふと、あることを思い付いた。
美古は、いずれ兄を降霊しようと思っている。この可哀想な母親に、練習台になってもらおう。
「……旦那さんの、命日と名前を、教えてください」
細い声で言った美古を、正一が驚いたような顔で見た。
女性は顔を上げ、信じられないものを見るように、訝しげに聞き返してきた。
「……あのイタコさんは、もうここにはいないのですよね」
「はい。でも、私も一応、修行していました。成功する確率は低いですが、一度やらせてください」
女性はしばらく黙っていたが、おそるおそるといった風に頷き、小さな紙に亡くなった夫の命日と、本名を書き込んで渡してきた。
美古は、祖母が座っていたあの場所へ、吸い込まれるように腰を下ろした。
暗い座敷。西日が落ち、部屋の隅々はどろりとした濃い影に浸食されている。
女性は、赤子を抱いたまま、縋るような目で美古を見つめていた。正一は少し離れた場所で、心配そうに、何かを警戒するような眼差しで美古を凝視している。
美古は、使い込まれた数珠を手に取った。じゃり、と、石の擦れる音がする。
「お山に登るは、亡き魂の……」
祖母の真似をして、喉から絞り出すように唱え文を口にする。
最初に感じた異変は、匂いだった。部屋の畳の匂いが、湿った土の混じった、鼻をつく異臭に変わっていた。急に、食道を熱した鉄が通り抜けたような、焼けるような感覚に襲われた。
ジャリ、ジャリ、ジャリ……数珠を揉む音が、美古の意思を離れて加速していく。
視界が歪み始めた。畳の目がのたうつ虫のように蠢き、壁の染みが、苦悶に満ちた無数の顔のように変わっていく。
「ぁ……っ」
途端に、息が苦しくなった。喉から出てくる声が、自分のものではない何かに変わっていく。
美古の口から出たのは、水底から響くような、重く湿り気を帯びた男の唸り声だった。
(寒い。暗い……冷たい……)
思考の隙間に、どす黒い粘液のような意識が流れ込んできた。
それは、愛情豊かな夫などという綺麗な存在ではないように思えた。事故で理不尽に命を奪われ、暗い土の下で凍えていた、名もない怨念の塊だ。




