なんかいいことあった?
美古はモップを受け取り、できるだけ丁寧に廊下を掃除した。それを見ていた掃除班の一人が、感心したような声を上げた。
「古瀬さん、見えねえのに、すげえな」
すると、他の生徒も興味深そうに口を挟む。
「ほんとほんと。家でも自分で掃除やってらの?」
「……うん。できるところは工夫して……」
「へぇ〜。うちより偉いじゃん。うち、家で掃除なんて全然しねくて、部屋めっちゃ汚ねえもん」
自虐混じりの言葉に、周囲がどっと笑い声をあげる。
――『笑うといい』
何故か、ふっと正一の発言を思い出した。脳内再生されたその言葉につられて、ほんの少し口元を綻ばせる。
途端、正面にいた女子生徒が、驚いたように口を開いた。
「美古ちゃんって笑うんだね」
美古は何だか恥ずかしくなって俯いた。髪の毛を触りながら、言い訳のように言葉を落とす。
「……笑うよ。人なんだから」
「笑ったところ初めて見たよ。転校してきてからずっと無口だったから、あんまり人と話すの好きじゃねぇのかなって思ってたんだけど……もしかして、そうでもねぇ?」
その問いに、美古は顔を上げ、「話すのは苦手だけど……話しかけられるのは、嫌いじゃないよ」と伝える。
むしろ、そんな風に思われていたのが意外だった。
女子生徒は、にかっと笑った。
「そっか。じゃあ、今度から話しかけるね」
彼女の少し日に焼けた浅黒い肌が、とても健康的で爽やかに見えた。
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掃除を終えて昇降口に向かうと、正一が立っていた。美古の姿を見つけるや否や、少し楽しそうに問いかけてくる。
「なんかいいことあった?」
美古は何だか気恥ずかしくて、靴箱からローファーを取り出しながら否定した。
「……別に」
「ふーん?」
正一が目を細めて笑う。全て見透かすようなその目に、美古は誤魔化すように上履きから履き替え、外へ逃げ出した。
「美古ちゃんのお兄さんって、甘いものは好きだった?」
正一に聞かれ、兄のことを思い浮かべた。兄は、美古よりも甘党だった。見た目は派手で怖いのに、休みの日にはカフェ巡りまでしていた人だ。
「……好きだと思います、けど」
「そう。じゃあ、今日はジェラート屋さんに行こう」
正一は持っていた地図を広げ、指先で一か所を示した。まだ聞き込みに行っていない店だ。
「ジェラート……」
口の中に広がる冷たい甘さを想像すると、腹の奥がきゅうと鳴るような心地がした。昼は、できるだけ早くご飯を食べ終えられるように努力している。食事を味わう暇なんてない。だから、ゆっくりと外で何かを食べられる機会は貴重だった。
正一がふふっと笑った。
「美古ちゃんも甘いもの好き?」
「……はい」
「なら、聞き込みついでに一緒に食べよう」
二人で歩き始める街の道は、雪解けの匂いのような、春の気配をほんのり含んでいた。商店や案内板には安渡館という文字が見えて、そこを目指して角を一つ曲がると、木製の柱とガラス窓が特徴的な建物が見えてくる。
入口のドアをくぐる。中は洋館のようだった。ダークブラウンの木枠が窓を縁取り、内部にはランプ式照明が下がっている。
店内は広かった。壁際には板の間の席もあり、畳が敷かれた小さなスペースで靴を脱いでゆったり座ることのできる席もある。
注文カウンターに並ぶメニューにはジェラートや海軍カレーと書かれており、ケーキとドリンクのセットもあるようだった。
カウンターに近づくと、透明なショーケースの中に並ぶジェラートが目に入った。苺の赤、抹茶の緑、バニラの白。
「どれにする?」と正一が振り返ってくる。
「……苺にします」
「分かった。苺一つと……バニラをお願いします」
正一が店員に伝えると、白い紙カップに盛られたジェラートが差し出された。木の小さなスプーンが添えられている。冷気が指先に伝わった。
トレイを受け取り、正一に案内されるまま窓際の席に座る。椅子の背が固い。
「はい、美古ちゃんの苺」
差し出されたカップを両手で受け取る。スプーンですくって口に含むと、甘い味がした。
正一が笑って尋ねてくる。
「おいしい?」
「……はい」
「今更だけど冬にジェラートって、季節感間違えてるかもね」
「一応今、春だと思いますよ」
むつ市の雪はまだ融けていないが、暦の上ではもうすぐ春が来る。
正一は壁にかけられた三月のカレンダーに視線をやって、今気付いたように言った。
「ああ、そうか。こっちって、なかなか寒さが抜けないよね」
「……そういえば、正一先輩って、転校してきたんですよね。青森にはこれまでも来たことあるんですか?」
同級生はあまり訛りを感じさせない人も多いが、イントネーションに標準語との違いが現れることがある。対して正一からは、そのような違いを全く感じられない。関東生活が長いのだろう。
「青森は慣れてるよ。元々関東だったっていうだけで」
親の実家が青森にあるなどだろうか。
引っ越してきた理由が気になり、美古はジェラートを食べながら問いかけた。
「正一先輩は、どうして青森に来たんですか?」
「昔、好きな子と出会ったのが青森だったんだよね」
意外な答えだった。美古は少し驚きつつも、再確認する。
「好きな人がいるんですか」
「いるよ。美古ちゃんに似た女の子」
グラスに注がれた水の中の氷が、からんと鳴る。
「その人のことを愛しているから、俺は青森に来たんだ」
少し待ってみたが、正一はそれ以上何も情報を出さなかった。自分から話さないということは、話したくないということなのだろう。ならば無理に聞く必要もない。
美古も昔、誰にも言えない恋愛をしていた。だから恋バナは少し苦手だ。中学の時も、同年代の女の子たちが誰それと付き合ったなどという話を楽しげに交わしているのを、隣で誤魔化すような愛想笑いをしながら聞いていた。美古は好きな人いないの? という質問に、何度言い淀んだか分からない。
ジェラートを口に含む。
――正一が自分のことを気にかけてくれるのは、自分がその〝好きな子〟に似ているからなのだろうか。
気になったけれど、結局聞けずじまいだった。




