それ、逆だと思います
昼休みが終わると、通常通り午後の授業が始まった。
黒板に並ぶ文字も、教師の声も、全て退屈だった。美古にとって学校は、ただ体を机に拘束されて、時間が過ぎ去るのを待つだけの、面白みのないものだ。
みんな、何のために学校に来ているのだろうと疑問に思う。
耐えるような気持ちで一日をやり過ごすうちに、放課後が訪れた。掃除の時間だ。
このまま掃除が終わるまで席に座り続けていれば、また嫌味を言われるだろう。そう予感した美古は、椅子を引いてすぐに立ち上がった。
今日も放課後は正一と待ち合わせをしている。彼もクラスでの掃除が終わってからになるので、少し待たなければならないだろう。でも、意地悪なクラスメイトたちのいる教室に居座るよりは、寒風の吹き抜ける昇降口に立っていた方がずっとましだ。そう思って、逃げるように廊下へ出る。
階段を降り、一階へ向かおうと足を向けた、その時。
「古瀬さんっ」
背後から美古の名前を呼ぶ声が響いた。
振り返ると、担任の山川先生が小走りでこちらに近付いてくる。細身の体で髪を揺らし、息を弾ませながら。
「……何ですか?」
「あのね、昨日、窓ガラスが急に割れたじゃない? その件で、柳さんに話を聞かせてもらったんだけど、ちょっといい?」
窓から差し込む夕陽が床に長い影を落とし、掃除の音と生徒たちの笑い声が遠くで響いている。
美古は山川先生と、廊下で立ち話をすることになった。
「柳さん、窓ガラスで怪我をする直前、古瀬さんに杖で足を引っ掛けられたって言うの」
「…………」
「あ、もちろん、先生も古瀬さんがそんなことするような子には見えないから、誤解だとは思うんだけどね? 杖を使おうとして足に当たっちゃったとか、そういうことでしょう? でも、柳さんからすると引っ掛けられたと思っているみたいで……。このままだと柳さんと古瀬さんの今後の関係性にも響いちゃうかもしれないから、少し、話し合いの時間を設けられないかなって」
話し合い。乾いた笑いが漏れそうになった。
柳は、前々から美古が特別扱いされていることに不満を抱いている。だから美古への先生からの好感度を下げるために、嘘をついているのだ。
話し合いをしたところでどうせ平行線だ。柳がどんな子か知らない先生には、きっと真実を見抜けない。
でも、ここで断れば、美古の方にやましいことがあると判断されかねない。美古は苦々しい思いを抱えながらも、承諾しようと唇を動かしかけた。その時。
「――あの、それ、逆だと思います」
澄んだ声が二人の間に割って入った。
驚いて振り返ると、廊下の端でモップを手にしていた女子生徒が立っていた。
小城だった。
分厚い眼鏡の向こうに強い眼差しがあった。いつも教室の隅でノートに絵を描いてばかりの、目立たない生徒。その小城が今、美古のために声を上げている。
「あたし、その場さ居たんですけど、古瀬さんが杖を引っ掛けたんじゃなくて、柳さんが古瀬さんにわざとぶつかって転ばせてました。他にも柳さん、日常的に古瀬さんに嫌がらせしてます。変な噂流したりとか……」
小城の声は震えていた。勇気を振り絞って言葉を紡いでいるのが伝わってくる。
美古は驚き、黙ってその顔を見つめた。
驚いたのは美古だけではないようだった。山川先生も一瞬、目を丸くして言葉を失っていた。
無口で目立たず、自分から先生に話しかけることなどなかった小城が、こんな風に声をあげるとは思っていなかったのだろう。
先生は少し戸惑ったように小城へ問いかける。
「……それは本当なの? 先生、柳さんがそんな子には見えないんだけど……」
「ほんとです。あの子、あたしみたいなブスとかデブとか、気に入んねぇ子には当たり強いんです。あたしも、古瀬さんが転校してくる前はいじめられてて……」
小城は緊張しているのか言葉を詰まらせながら、一歩ずつこちらに歩み寄ってきた。
その告白に、山川先生は眉を寄せ、考え込むように視線を落とす。そして困ったように眉尻を下げながら言った。
「小城さんの言いたいことは分かったよ。でも、柳さんも悪気はないのかもしれないから、やっぱりこの件については柳さんも含めてお話を……」
その言葉を言い終える前に、小城がぐっと美古の手を握り締める。
「柳さんと話したって、なんも変わんねぇと思います。あの子、先生の前ではいい顔するし、先生言いくるめられて終わりだべって思います。古瀬さん、なんもしてないのに、時間取らされて可哀想です」
緊張しているのか、小城の手の力は強く、指先が震えているのが伝わってきた。
「先生は何も見えてないのに、憶測と偏見で生徒のこと見立てるの、やめた方がいいと思います」
それは、美古がずっと、先生に言いたくても言えなかったことだった。小城が代わりに言ってくれたおかげで、胸がすっと軽くなるような心地がした。
「行こ。古瀬さん」
美古は小城に手を引かれ、そのまま山川先生の前を離れた。先生は何も言えずに立ち尽くし、ただこちらの背中を見送っている。
教室前の廊下に戻ると、小城はようやく美古の手を放し、気まずそうに指先をいじりながら口を開いた。
「古瀬さん、モップがけって、できそうだべ?」
「……え?」
唐突な問いに美古は目を瞬かせる。
「いつも掃除の時間、気まずそうにしてるから。もし手持ち無沙汰だったら、ちょっと手伝ってほしいなって思って……」
小城と同じ掃除班の生徒たちが、少し驚いたようにこちらを見ていた。目の見えない美古が手伝えるなんて考えもしなかったのだろう。
その「手伝ってほしい」という言葉が美古にはたまらなく嬉しかった。だから、こくこくと力強く頷いた。
「できる。モップがけも、窓拭きも、できるよ」
小城は安堵の笑みを浮かべ、自分が持っていたモップを美古に差し出す。
「じゃあ、お願い。一緒にやろう」




