笑うといい
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嫌でも朝は訪れる。
今日の明け方もまた、幸せな夢を見ていた。母と兄と三人で、東京で暮らしていた頃の夢だ。忙しい母は、料理を冷凍して保存してくれていた。それを温めて、兄と一緒に食べた。
一丁前に幸せを夢見ている。それを壊したのは自分のくせに。
昨夜はあのまま寝落ちてしまったらしい。目覚めた美古は、古びた木の風呂に湯を張り、冷えた体を沈めた。そして、もう一着ある制服に着替え、外に出る。
毎日変わらない、路肩に雪が残った景色。いつになったら春が来るのだろう、と嫌気がさした。
憂鬱な気持ちのまま、杖をつきながら学校へ向かう。通学路では登校中の生徒たちが友達同士で楽しげに笑っていて、疎外感がした。
教室に入ると、わざとらしい沈黙と視線を一斉に浴びせられた。しかしそれは一瞬のことで、今日の生徒たちの話題は、美古のことではなかった。
「なして昨日、急に窓ガラス割れたんだべな」
「ほんと最悪。うちのママ、学校さ文句言ったみたいだよ」
昨日、窓ガラスの破片に当たって怪我をした女子の頬には、大きな白いガーゼが貼られている。割れた窓には、新聞紙がガムテープで貼りつけられていた。
美古は一通り教室を見回したのち、そっと自分の席に腰を下ろした。
後ろでは女子たちが昨日のことを話し合っている。
「えー? それって山川先生の方に文句いくんでね? あんた、この前まで山川先生と仲良くしてたべ」
「いいよ。あいつ、最近うざかったし。ちょっと化粧したぐれぇでガタガタ言うんだもん」
山川先生、というのは担任の名前だ。
彼女は山川先生と仲良くしていたが、校則違反の化粧を指摘されたことが気に食わないらしい。山川先生経由で知られたくない情報が漏れていた美古にとっては、少しほっとする展開だった。
四時間目の授業が終わると、美古は、足早に教室を後にした。
向かうのは、昨日正一と約束した場所である視聴覚室だ。
戸を横に引く。室内には遮光カーテンが引かれており、昼間だというのに夕暮れ時のような薄暗がりに包まれていた。空気中には埃の粒子が光の筋となって舞っている。
正一は奥の椅子で、文庫本に目を落として待っていた。そして扉の音に気付き、彼はゆっくりと顔を上げた。
美古は正一にゆっくりと近付き、機材棚の影に置かれた長椅子に腰を下ろす。
お弁当箱の包みを解いた。
「……それ、いつも何読んでるんですか?」
「昔、最後まで読めなかった本だよ」
「ふうん……」
興味本位でその手元を覗き込めば、黄ばんだ紙面にびっしりと活字が詰め込まれていた。図書室に置いてあるものよりも、ずっと古い本に見えた。
正一は栞を挟んで本を閉じ、コンビニの袋から弁当を取り出した。学校の近くのコンビニで買ったのだろう。
ふと、正一が美古の手元の彩りに目を留める。
「美古ちゃん、凄いね。お弁当自分で作ってるの?」
箸でハンバーグを割りかけていた美古の手が止まった。顔を上げ、視線を合わせないように頷く。
「……作るって言っても、朝は時間がないから前の日の残りとか冷凍食品詰めるだけだし、買ってる日もありますけど」
「料理できるんだね」
「おばあちゃんを手伝ってましたから。あと、兄の手伝いで料理をすることもありました」
兄の記憶が浮かび上がる。兄は、目の見えない美古にも、迷わず包丁を握らせ、火の傍に立たせてくれた。最初から美古ができないと決めつけなかった。
美古は一瞬、暗闇の中に意識を引き摺り戻されそうな感覚を覚えた。兄のことを思い出すと、死にたくなる。
その時、正一が身を乗り出すようにして、美古の弁当を興味深そうに覗き込んでくる。美古の意識が現実に引き戻される。
「美古ちゃんが作ったのはどれ?」
「この卵焼きとかは自分で……」
「へえ。上手に巻けてるね」
正一にあまりに熱心に見つめられるので落ち着かなくなり、つい口を滑らせる。
「いりますか?」
すると正一は、嬉しそうに目を細めた。
「いいの? 食べたい。美古ちゃんも、俺の方からほしいの取って」
差し出されたコンビニ弁当から、美古は遠慮がちにエビフライを一つ摘み、代わりに正一が黄色い卵焼きを口に運ぶ。「おいしいね」と、彼は心の底から満足そうに笑った。
正一は優しくて、人当たりがいい。自分のような人間が隣にいていい人ではない。そんな思いで、胸がちくりと痛んだ。
もぐもぐと咀嚼し、飲み込んだ後、美古はぽつりと言った。
「……正一先輩、やっぱり、明日からは別々で食べましょう」
「え? どうして? ここで食べるの、やっぱり嫌だった?」
「私なんかと一緒にいたら、正一先輩が友達作る機会を逃しちゃいます」
正一は数秒ほどぽかんと呆気に取られていたが、やがて噴き出すように破顔した。
「美古ちゃんは優しい子だね。でも、確かにそうかも。俺はともかく、美古ちゃんは、同学年の友達ができた方がいいよね」
「私はできないですよ。私なんかと友達になってくれる人いません」
「……美古ちゃんって」
「はい」
「卑屈だよね」
予想外の言葉に、俯いていた美古は顔を上げた。
正一は悪戯が成功した子供のように、楽しげな笑みを浮かべている。
「本当はとても素敵な子なのに、そんな風に暗い顔してたら、そりゃあ友達できないよ」
「…………」
「笑うといい。美古ちゃんは、笑顔がとても可愛いから」
正一の指先が美古の頬に触れ、むにっと摘まむ。
笑顔。そんなもの、とうの昔に忘れてしまった。
美古は正一から視線を逸らすと、逃げるようにお弁当を口にかきこんだ。
昼食を終えると、正一は「ついでだから」と教室の前まで送ってくれた。
その途中の廊下、すれ違う生徒たちの喧騒の中で、小城が足を止めているのが見えた。彼女はわざわざ振り返り、射抜くような視線をこちらに投げている。
まただ。また、見ている。険しい表情で。
一体、こちらの何がそんなに気になるのだろう。美古は、解けないパズルのような違和感を抱えながら、教室の扉へと手をかけた。




