2.少女、逃げた先の日常
季節は春も中頃、大型連休が明けたばかりの五月中旬。
場所は私立煌麗学園、校門前。
東京二十三区外において最近人口が増加しそれに伴う都市開発が急速に進んでいる方天市にあり、学業だけでなく部活動も高い水準で支援している新設されたばかりの私立高校である。
紺のブレザーを着る生徒達が次々と入ってくる校舎までの整備された道のりの中で、背をすらりと伸ばしかつおしとやかに歩く美しい姿の少女がいた。
怜莉である。
黒髪を風に靡かせ穏やかに微笑みを浮かべながら歩く姿はため息の出るほどの美しさであり、周囲に大勢いる生徒達、とりわけまだ入学して一ヶ月の下級生達の集まりから見ると彼女は非常に浮いていた。
「ふふっ、みなさん。ごきげんよう」
怜莉は道すがらそわそわとしていた下級生の女子数人の集まりに笑って声をかける。
「あっ、はいっ! おはようございますっ!」
怜莉の言葉に体を固くする下級生達。
彼女は微笑みを向けた後、そんな彼女らには目も向けず校舎への道を歩いていく。その途中で、複数人の男子グループ――彼らは三年生であった――が少し大きめな声で話しているところを横切る事になった。
「なぁお前最強フォームのオモチャ買った?」
「買った買った。今回出るのちょっと早かったけどやっぱかっこよかったしなー」
「だよなー。あの異世界のCGもよく出来てて凄かったもんなー俺も買いてぇーでも金と受験勉強がなぁー」
「変身オモチャ買って壊れる勉強ならもう何やったって駄目だろ……」
嫌でも耳に入ってくる会話は、男児向け玩具販促番組の話題らしかった。
刹那、怜莉の顔が凍りつく。侮蔑に満ちる。
『まあ有り体に言えばそうだね、ここは君達の目から見たら異世界ってやつかな。とうわけで、ようこそ《エレクティア》へ。さっそくだけど、僕達には必要なのさ。君達の力がね』
同時に頭の中に走るノイズ混じりの灰色の言葉。
壊れたモニターのようにどぎついブロックノイズだらけで何も見えない、そんな記憶。
『大丈夫さ、君は《デスティニーチルドレン》なんだ。《エレクティアン》とは別種の戦う超能力を得ているんだよ。悪を打ち倒す異能がその手にあるのさ』
なおも続く不快な雑音。こんなものがテレビやスマートフォンから流れてきたら言ってることなど何も分からないまま切ってしまうのに、言葉の中身だけは明確に伝わってくる。
思わず舌打ちしたくなるのを、彼女は必死に堪えた。
「……趣味の話をするのはいいですが、もう少し声のトーンを抑えた方がいいですよ。大声は周りの迷惑ですから」
だが彼女は即座に微笑みに戻りやんわりと男児達に注意する。
彼らは通り過ぎながら言う彼女に驚きながらも「あっ、はい!」と三年生なのにまるで下級生のように大慌てで頭を下げた。
「うお……怒られちまった……でもあれが深紅羽さんかぁ、噂になるはずだ。すげぇいい人っぽそう」
「ああ、まさにザ・清楚オブ清楚って感じ。あんな人と付き合えたら最高なんだろうなぁ」
「お前じゃ無理だけどな」
「テメーにも無理だろ」
注意してもなお耳障りな男子達の声にもやはり怜莉は振り返ることはない。
ただ落ち着いた顔で校舎まで歩き続けるだけである。
「うーん、これがザ・清楚オブ清楚ねぇ……」
「は?」
その日の昼休み。
教室の窓際の席で昼食を取っている怜莉は突然そんな言葉を友人からかけられ、露骨に不機嫌そうな声を出した。彼女は先日家電量販店で一緒にいた一人で、セミロングの方の少女である。
怜莉の右手にはコンビニのたまごロールが握られ、机の上には同じくコンビニのチキンスティック、そしてエナジードリンクの缶が置かれており怜莉は今それをあんぐりと大口を上げて食べようとしているところであった。
「人がお昼取ろうとしてるところでいきなりなんなの?」
「いーや? 毎朝後輩からアッツい視線を受けててなんなら先輩達からもすんごい人気な学園のアイドルが取る食事がこれかと思うと、ファンの子達が可哀想だなぁとね」
友人が大げさに両の手のひらを上げ首を振りながら言った言葉に、怜莉は「はぁ……」と軽くため息をつく。
「別に知ったことじゃないわよ。人を外見で判断するような相手に気を使う必要はないでしょう」
「そうは言うけど、今朝みたいによく笑って返してあげてるじゃん」
「あれは、その方が面倒がないからやってるだけ。悪い噂で騒がれるより無駄に持て囃される方がまだマシでしょ。その程度で騙される馬鹿でも群れるとダルいしイイ顔しとくに越したことはないわよ」
言葉の後に窓の外に目を向ける怜莉。
眼下には人がいない校門前、そして対照的に車が行き交う道路が広がっており、また窓にはうっすらと不機嫌な自分の顔が映っている。
その自分の顔が、また彼女の表情の皺を深くさせる。
「……まあそこらへんはいいとしてさ。それよりもその可愛げのカケラもない昼食はちょっとどうかと思うよ? なんかもう早死するタイプの独身男性って感じじゃんそれ」
友人は呆れた目線で怜莉の机の上を見て言う。
「別に私は元から可愛げなんて求めてないし。食事なんてそのときの空腹が満たされればそれでいい。それに私が体を悪くしたって誰も困らないじゃないの」
「生き急いでるなぁ……」
突き放すように言う怜莉に友人は苦笑する。
対して怜莉はそんな友人をチラリと見て、そのままたまごロールにかぶりつく。
「霧絵ーっ! 早く食べようよー!」
と、そんなとき友人――霧絵と呼ばれた彼女の背後から声が響く。
そこには同じく先日家電量販店に一緒に行った一人がいた。妹のためにぬいぐるみを探していたくせ毛気味の少女だ。
「ほら、八重が呼んでるわよ。こんなところで私相手にウダウダやってないでさっさと行ってあげなよ」
「……うん。ところでさ、やっぱり――」
「――私は一人がいいの。……もうずっと言ってるでしょう、これ」
「まぁ、そうだけどさ……」
困ったように静かな苦笑いをしながら僅かに視線を下に向ける霧絵。
怜莉は彼女の背後に見える机に視線を向ける。
「……まあ、どうしてもって言うなら普通に行ってあげてもいいわよ。私って優しいし」
「さすがにそこまでじゃないって。大丈夫、今回も強要はしないよ。でも、いつ自分から来ても私達は気にしないからさ」
霧絵は寂しそうに笑って怜莉の席から離れ、既に机を向かい合わせている八重の元へと行き席につく。
怜莉はそんな彼女らの姿をチラリと見て、再び窓の外へと視線を向けた。
「……行かないわよ。私はもう、誰のところにも」
見上げる空は、腹が立つ程に青かった。
+ + +
学園から歩いて四十分弱のマンション。その五階に怜莉の部屋はあった。
季節的にまだ日が落ちない時間であるため、部屋とまっすぐ繋がっている玄関はうっすらと明るく照らされる。
怜莉はそんな玄関に入るとすぐさま鍵を閉め、履いていたローファーを乱暴に転がして部屋に進む。
彼女の部屋はとても女子高生の部屋とは思えない有り様だった。
冷蔵庫と洗濯機に掃除機、後は勉強机と回転椅子とベッド、フローリングの床に直接置いたテレビ、そして本が入っている白い木製のカラーボックスとその程度である。
床には何個も口を閉じたゴミ袋が置かれており、中にはコンビニ弁当の空箱にパンやおにぎりの包装、ジュースの空き缶やペットボトルといった、すぐに飲食できるもののゴミばかり詰まっている。
怜莉はそんな部屋に入ると、リボンをさっと外しバッグと共に投げ捨て、どっとベッドの上に背中から倒れ込んだ。
「ふぅ……今日は疲れた。いい加減私に告白しても意味ないって理解して欲しいよ。一言とはいえ、断るのに相当気力使うのに……なんで今日は何人も……」
天井を眺めながら言う怜莉。
窓から差す陽光は半端に天井を照らす。
そうしていると、着ているブレザーのポケットからスマートフォンの通知音が鳴り響いた。
怜莉は仰向けの体勢を崩さないままポケットに手を突っ込み、取り出し見る。
そこにはSNSアプリからの通知が表示されていた。
「……そういや、今日ぐらいだったっけ」
怜莉は気だるげに言いながらもロックを解除し、アプリを開く。
そこには『母』という名が表示されており『今月の生活費を振り込みました』と簡潔に記されていた。
怜莉はそのメッセージを既読にすると、返信はせずそのままアプリを閉じスマートフォンをベッドの上に転がした。
「……ごめんね、母さん。でも、やっぱり、辛いよ」
怜莉はそのままスマートフォンを持っていた右手の腕で目元を隠し呟く。
彼女はそうしてしばらく、何をするわけでもなく、ぼーっとしていた。
+ + +
立ち並ぶ曲線的なラインをしたビル群が崩れ、降り注ぐ鋭い雨ですら消すことが出来ないほどに炎をその窓から上げている。
様々な形をした影が、割れる道路の中央で膝をつく彼女を横切り、走っていく。
鳴り止まぬ爆音、響き渡る悲鳴。恐慌満ちる混沌の連鎖。
だがそんな中で、彼女の周りの雨だけは空中で雫となり止まっていた。だが完全に止まったわけでもなく、非常に緩慢に、地に落ちるのに夜から朝になりそうな程ではあるが動いてもいる。
言うなれば停滞という言葉が相応しいだろう遅鈍たる水滴の中、彼女もまた動けずにいた。
だが彼女もまた停止しているわけではない。彼女は確かに、その手を、胸を、喉を、頭を、わなわなと震わせていた。
息を荒くし、体に走る痛みに、心を蝕む恐怖に、彼女は囚われていた。
ああ、辛い。苦しい。誰か、誰か助けて……。
彼女の苦悶は誰の耳にも届かない。彼女の周囲だけで動かぬ時の中、悲痛な喘ぎだけが響く。
いくら胸を掻きむしっても、誰もその姿を見る者はおらず。
いくら口を動かしても、血を流す叫びは誰の耳にも届く事はなく。
いくら涙を流しても、その水面に映る心の波紋に気づく優しさは足らず。
いくら雨に降り注ごうと、雫が届かぬゆえに足元に広がる血溜まりは流れ行く事なく。
彼女の痛みと恐怖を感じ取ってくれる者は、そこにはいなかった。
+ + +
「――……っ!?」
そこで怜莉は目を見開き、自分がいつの間にか眠りに落ちていた事に気づく。
脂汗が浮かぶ顔で彼女は左手首を確認する。そこには、当然何もない。
「……うぷっ!」
突如、体中を満たす不快感。
それは胃液の逆流という形で起こり、猛烈な吐き気となってせり上がってくる。
怜莉はとっさに――けれども慣れた手つきで近くに置いてあったゴミ袋を掴み、素早く頭を向けた。
「おっ、おええええええええっ……!」
直後、彼女はゴミ袋の中に嘔吐する。
出てくるのは昼食として食べた偏った食事、そして喉を焼く大量の胃酸である。
「おええっ……! げえっ……! えおえっ……!」
出るものがなくなっても怜莉はえずく。
体の中を満たす不快感をそれによって吐き出そうと、何度も何度も。
しばらくそうしていた彼女は、やっと頭を天井に上げる。
天井にかかっていた光は既になく、うっすらと僅かな夜の街明かりが入り込むだけだった。
「はぁ……はぁ……もう、ずっと、なのに……やっぱ、しんどい……」
喉の痛みを和らげるために無理に唾を出し飲み込みながらも怜莉は言う。
そうして息を荒げながらも怜莉は自分が嘔吐したゴミ袋を見下ろす。
可燃ゴミに混ざった自らの吐瀉物に、思わず「……はぁ」とため息をついてしまった。
「……確か月曜と木曜だから……まだちょっとあるか……もう……。……ったく」
疲れを露わにするように息を吐くと、怜莉はさっとそのゴミ袋の口を縛る。
そしてそれを玄関近くに置いてくると、水道を捻りコップに入れた水をぐっと飲み、部屋の電気をつけて勉強机に向かい始めた。
「じゃあ、ちゃっちゃと宿題終わらせちゃおう」
まるで嘔吐を含めてそれが一つのルーティーンのように、その動きには淀みがなかった。




