第9話:君がくれた世界
第9話:君がくれた世界
湯気の中に、すべてが溶けていくような感覚だった。
学食の、やけに薄味のうどんを口に運んだはずだった。
それなのに、次の瞬間、舌の上に残っていた生ぬるい出汁の味は、鋭いアルコールの匂いにかき消されていた。
視界が強烈な白に染まり、ゆっくりと明度が落ちていく。
天井が見えた。
さっきまであったはずの、安物の薄い木目ではない。規則正しく吸音穴のあいた、白い正方形のパネルが並んでいる。
耳の奥で反芻していた歌声は消え、代わりに、一定の間隔を刻む電子音が鼓膜に刺さった。
ピッ。ピッ。ピッ。
首を動かそうとしたが、根元からコンクリートで固められたように重い。
視線だけを、右側に落とす。
「……あ」
声にならなかった。喉の奥に乾いた砂が張り付いている。
パイプ椅子に腰を下ろした人影が、僕の動かない手を見つめていた。
少し色あせたグレーのジップパーカー。膝の上に置かれた両手は、爪の先が白くなるほど強く握りしめられている。
遥香だった。
サークル棟の裏手で見せた、あの整ったデニムジャケットの姿ではない。髪は後ろで一本に雑に結ばれ、こめかみのあたりに数本の解れた毛が垂れている。
彼女の目の下には、薄暗い紫色の影が張り付いていた。
「渚くん」
遥香が顔を上げた。
その瞳が僕を捉えた瞬間、彼女の呼吸が完全に止まった。
張り付いていた絶望の影を、内側から爆発させるような光が彼女の瞳に灯る。握られていた手が離れ、彼女は弾かれたように立ち上がった。
「嘘……渚くん? わかる? 私だよ、遥香だよ」
彼女の目から、堰を切ったように大粒の涙が溢れ出た。それは一週間の暗闇からようやく解放された、圧倒的な安堵の涙だった。
遥香はナースコールを何度も強く押し、廊下に向かって「先生! 渚くんが!」と声を震わせながら叫んだ。
医師や看護師たちが慌ただしく出入りし、一通りの検査を終える頃には、すっかり日が傾いていた。
「渚くん、覚えてない? 交差点で、私を庇って……それから、ずっと眠ってたんだよ。一週間も」
一週間。
脳の奥が、冷たい水に浸されたように急激に冷えていく。
サークル棟の裏手のベンチも、秋の風に揺れる木々も、ぬるい缶コーヒーも。
学食のざわめきの中で僕が過ごしたあの退屈で平坦な2006年の日常は、すべてこのベッドの上で僕が見ていた残像だった。
いや、それだけではない。
遥香の両手の隙間から、小さな機械の駆動音が聞こえていた。
サイドテーブルの上。プラスチック製のポータブルMDプレイヤーが置かれている。細いイヤホンのコードが、僕の枕元へと伸びていた。
液晶画面には、バックライトもなく、ただ『almost in love CHEMISTRY』という文字が細かく表示されている。
「ずっと、流してたんだよ」
遥香は僕の手を握ったまま、視線をサイドテーブルへ向けた。
「渚くんが好きな曲、お医者さんに怒られないくらいの小さな音で、ずっと。耳元でね、いろんなお話もしたの。今日の天気とか、大学の課題のこととか。聞こえてるかどうか分からなかったけど、届くといいなと思って」
合致していく。
夢の中の遥香が、どうして僕の欲しい言葉を完璧に差し出してきたのか。どうして、僕の思考の裏側にある哲学を、まるで最初から知っていたかのように語れたのか。
彼女が、ここでずっと話しかけていたからだ。
僕が昏睡の底で組み立てていた世界は、彼女が現実の境界線から投げ入れ続けた言葉の破片でできていた。
胸の奥が、嫌な形で脈打ち始める。
彼女の目の下のクマが、僕が庇って無傷だったことの代償のように見えた。一週間の時間を、彼女はこの狭い部屋で、僕の心電図の音だけを数えて過ごしていたのだ。
「ほら、お花」
遥香は、ガーベラの花びらにそっと指先で触れた。
「綺麗だね」
彼女はそう言って、僕を見た。
口元には、いつもの穏やかな、底のない泉のような微笑みが浮かんでいた。声も、一切震えていない。
それなのに、彼女の目から、大粒の涙が、一筋の明確な線となって頬を伝い落ちた。
声を詰まらせることもなく、呼吸を乱すこともなく、ただ純粋な液体としての涙だけが、ボロボロと溢れて彼女の顎の先からシーツへと落ちていく。
トントン、と、シーツに小さな、濃い灰色の丸い染みがいくつもできていく。
「本当によかった。目を覚ましてくれて。」
僕は何も言えずに、ただその涙を見つめていた。
病室の空気はひどく乾燥していて、空調の音が、僕たちの沈黙をただ一定の速度で削り取っていった。
翌日から、遥香の様子は劇的に変わった。
それまでの、心電図の音をただ怯えながら数えるだけの日々は終わったのだ。彼女には今、明確な「役割」があった。
結んでいた髪を綺麗に下ろし、いつもの穏やかな、しかしどこか弾むような足取りで、彼女は毎日病室へとやってくるようになった。
「はい、今日の差し入れだよ」
遥香は、買ってきたばかりの透明なプラスチックのケースをサイドテーブルに置いた。中には、彼女が自宅で編集したという十数枚のMDが隙間なく並んでいる。青いマジックの掠れた文字で、いくつかのプレイリストの名前が書かれていた。
彼女はポータブルMDプレイヤーに慣れた手つきでディスクをセットし、僕の耳元にイヤホンを寄せる。
その生き生きとした看病の姿を見るたびに、僕は夢の中で彼女が語っていた言葉の断片を思い出していた。あの夢は、彼女が現実の境界線から投げ入れ続けてくれた言葉の破片でできていたのだと、じわじわと理解し始める。
「ほら、リンゴ剥いたから。まだ上手く噛めないかもしれないけど、小さく切ったからね」
彼女は器用にナイフを動かし、白いウサギの形にしたリンゴをフォークに刺して僕の口元に運ぶ。
その横顔には、もう一昨日のような暗いクマはなかった。僕の世話をすること、僕の回復を一番近くで見守ることに、彼女は自分のこれからの時間を全て注ぎ込むような、瑞々しい生気を漲らせていた。
「美味しい?」
「……うん」
彼女が笑う。底のない泉のような、いつもの穏やかな微笑み。
けれど、その笑顔が眩しければ眩しいほど、僕の胸の奥には別の澱が溜まっていく。
彼女は今、僕を看病するという歪な日常の中に、自分の居場所を見出してしまっている。僕が動けないままでいることが、彼女の生き生きとした献身を支えているのではないか――そんな醜い疑念と罪悪感が、僕の心の底で、静かに、けれど確実に質量を増していった。
現実の病室にいる、甲斐甲斐しく僕の身体を拭いてくれる遥香。
夢の中で、デニムジャケットを着てニーチェを語っていた遥香。
その境界線が少しずつ滲みながら、僕たちの新しい、歪な日常が始まろうとしていた。




