第8話:こころの震え
第8話:こころの震え
目が覚めると、やはりいつもの天井だった。
安物の薄い木目が、規則正しく並んでいる。
脇に挟んだ体温計を抜くと、液晶には36度4分と表示されていた。平熱だった。
窓の外からは、近くの小学校のチャイムがかすかに聞こえてくる。キーンコーンカーンコーン。平坦な、どこにでもある音。
すべてはいつも通りの、退屈で平坦な2006年の日常だった。
それなのに、僕の舌の裏側には、まだ奇妙な苦みがへばりついて離れなかった。
指先が、スウェットの裾を掴んだままかすかに震えている。
さっきまで見ていたはずの景色の残骸が、網膜の裏側に焼き付いて消えない。
白く、均一に塗られた天井。
鼻腔を丸ごと削り取るような、鋭い消毒液の匂い。
実感を伴った、あの僕の喉から飛び出した醜悪な言葉。
――ずっと、好きでいて。ずっと僕のことを忘れないで。
どうしてあんなことを言ったのだろう。
僕は布団から起き上がり、枕元に転がっていた折りたたみ式の携帯電話を拾い上げた。ヒンジがカチリと軽い音を立てて開く。
液晶のバックライトが、薄暗い部屋の中で僕の顔を冷たく照らした。
未読メールが一件。遥香からだった。
『体調はどう? 今日、大学には来られそうかな』
画面の中の文字のフォントが、やけに角張って見えた。
僕はしばらくその画面を見つめた後、短く「大丈夫、行く」とだけ返信を打ち、携帯を閉じた。
充電器の細いコードが、床の上で蛇のようにのたうち回っている。
胸の奥で、かすかな動悸が続いていた。
大学へ向かう道すがらも、違和感は消えなかった。
通り過ぎる自転車のチェーンが擦れる音や、軽自動車の排気ガスの匂いが、妙に誇張されて脳に届く。まるで、誰かが用意した舞台セットの中を歩かされているような、奇妙な浮遊感があった。
サークル棟の裏手にある、錆びかけた鉄製のベンチ。
秋の風が、容赦なく木々を揺らして通り抜けていく。
僕は自動販売機で買った缶コーヒーを両手で挟み、その缶のぬくもりだけを頼りに座っていた。アルミの表面に浮いた結露が、じわりと指先を濡らす。
「あっ、渚くん」
植え込みの向こうから、遥香が歩いてきた。
少し大きめのデニムジャケットを着て、肩からベージュ色のスクールバッグを下げている。彼女の足元で、枯れ葉がカサリと音を立てて潰れた。
「もう平気なの? あんまり無理しちゃダメだよ」
遥香は僕の隣に腰を下ろすと、すぐに僕の額に自分の手のひらをあてた。
彼女の手は、僕の皮膚よりも少しだけ冷たかった。その冷たさが、じわりと僕の思考の霧を晴らしていくような気がした。
「熱は下がったよ。まだ、ちょっと頭が重いけどね」
「そっか。よかった」
遥香は安心したように微笑み、バッグの中からポータブルMDプレイヤーを取り出した。
彼女は慣れた手つきでイヤホンのコードを解き、片方の音筒を僕の耳へと差し込んできた。
耳の奥に、少しこもった重低音のイントロが流れ込んでくる。
YUIの『feel my soul』だった。
アコースティックギターの直線的なコード進行と、少し尖った、ひたむきなボーカルの声が、鼓膜を優しく叩く。
「……なあ、遥香」
「ん?」
僕は缶コーヒーを開ける。パキッと、鋭い金属音が出入り口の少ない敷地に響く。
「変な感覚が、ずっと残ってるんだ」
「変な感覚?」
「何が本物で、何が嘘なのか、よく分からなくなってるんだ。アパートの部屋も、この錆びたベンチも、君のシャンプーの匂いも、全部僕が勝手に見ている夢なんじゃないかって。本当の僕は、病室に閉じ込められていて、そこから一歩も動けないんじゃないかって、そんな気がするんだ」
遥香は、まっすぐ前を向いたまま、音楽を聴いている。
彼女の横顔を、僕は観察するように見つめた。長い睫毛が、微かに揺れている。
彼女は驚くことも、僕の頭がおかしくなったと笑うこともなかった。ただ、ゆっくりと僕の方に顔を向け、その深い瞳で僕の視線を正面から受け止めた。
「事実というものは存在しない。あるのは解釈だけだ」
彼女の口から飛び出したのは、穏やかな声に似合わない、硬質な言葉だった。
「え?」
「ニーチェの言葉だよ。渚くん、大学の講義で聞いたことない?」
遥香は僕の手首を掴んだ。
彼女の指先が、僕の脈拍を確かめるように、強く皮膚を圧迫する。
「私たちが『客観的な現実』って呼んでいるもの自体がね、人間が生きるために作り出した一種の幻影に過ぎないんだって、彼は見抜いていたの。だからね、世界が元から現実なのか幻想なのかを気にすること自体が、本当はナンセンスなんだよ。そんなの、誰にも確かめようがないんだから」
彼女の口調は淡々としていた。まるで、明日の時間割でも話しているかのように、あまりにも自然に、僕の脳の裏側にある不安を抉り出してくる。
「大事なのはね、今目の前にあるこの光景を、渚くんがどう解釈して、どう生きるかっていう、それだけだよ。あるのは、その光景に向き合う力への意志だけ」
「力への意志……」
「そう。ニーチェはね、運命愛という言葉も遺しているの」
遥香の顔が、僕の視界を塞ぐように近づいた。
彼女の着ているデニムジャケットの硬い生地が、僕の膝に触れる。そこから伝わる確かな温度が、僕の曖昧な意識をこの空間に強引に引き留めようとしていた。
「目の前の光景がどれほど過酷で、どれほど不条理な幻のように見えたとしてもね、それを『これこそが自分の人生だ』って引き受けて、愛して、力強く足を踏み出しなさい、って。そうやって生きるんだよって、彼は猛烈に言っているの。現実か幻想か、その境界線で立ちすくんで怯えていることはね、生への敗北だよ」
それは、激しい叱咤だった。
けれど、彼女の表情には、怒りも、焦りも、熱い情熱すらも浮かんでいなかった。ただ、どこまでも静かで、深い、底のない泉のような微笑みがそこにあるだけだった。
彼女は僕を励ましているのではない。
僕を、この「2006年の日常」という幻影の中に、力ずくで閉じ込めようとしているのだ。たとえそれが、どれほど不条理な偽物であったとしても。
「……生への、敗北」
「そう。だから、自分を疑っちゃダメ。ここに私がいて、渚くんがいて、冷たい缶コーヒーがある。それを『私たちの現実』だってお互いに解釈すればいいの。それだけで、世界は完成するんだよ」
彼女の言葉には、僕の論理的な解説をすべて押し潰すような、妙な強制力があった。
彼女には「自分がどうしたいか」という欲望が欠落している。ただ、僕が崩れそうになる瞬間に合わせて、その内面に完璧に同化し、都合のいい言葉を差し込んでくる精密な生き物。
「……分かったよ。たしかにそうかもしれない」
僕は力なく笑い、缶コーヒーを口に含んだ。
ぬるい甘さが、喉を通り過ぎていく。
「うん。分かってくれればいいの」
遥香は満足したように目を細め、ベンチから立ち上がろうとした。
その瞬間だった。
彼女の目から、大粒の涙が、一筋の線となって頬を伝い落ちた。
表情は、何一つ崩れていない。
口元には、さっきの優しい微笑みが残ったままだ。
声を詰まらせることも、呼吸を乱すこともなく、ただ、彼女の目から、純粋な液体としての涙だけがボロボロと溢れていく。
ポタ、と彼女のデニムジャケットの襟元に、小さな黒い染みができた。
「遥香……また、泣いてるのか?」
僕は息を呑み、彼女の顔を見上げた。
遥香は、自分の頬を濡らす水分に気づいていないかのように、あるいは最初からそれが当然であるかのように、まっすぐ前を見つめていた。
「え? 泣いてないよ」
彼女は、声のトーンを一切変えずに言った。
「秋の風って、ときどき冷たくて、目にゴミが入っちゃうんだよね。ほら、行こう。学食、混んじゃうから」
彼女は涙を拭おうともせず、僕の手を引いた。
その手のひらは、不自然なほど乾いていて、やはり、どこか冷たかった。
学食の雑踏の中。
トレイがぶつかる音、学生たちの笑い声、湯気の向こう側で動くおばちゃんたちの白い帽子。
壁のテレビからはヒット曲のランキングが小さな音で流れていた。
世界は、ありふれた日常の音で満ちていた。
ポケットの中で、ケータイが短く震える。センター問い合わせの通知。画面を開く気力は、もうなかった。
僕は、自分の目の前にあるうどんの器を見つめながら、ただ静かに、その湯気の中に溶けていくような感覚を味わっていた。
耳の奥で、YUIの歌声が、壊れたレコードのように何度も何度も反芻している。
何が本当で、何が嘘なのか。
遥香の言う通り、それはどうでもいいことなのかもしれない。
僕は箸を動かし、温かい麺を口に運んだ。味はひどく薄く、それからどこか生ぬるい味がした。




