第7話:僕等の行方
第7話:僕等の行方
熱を出すと、世界の解像度が奇妙に狂い始める。
天井の薄い木目は、まるで誰かが気まぐれに引き伸ばした歪な五線譜のように見えたし、窓の外から聞こえるカラスの声は、ひどく感度の悪いラジオのノイズのように鼓膜を引っ掻いた。
どこか蒸し暑い初秋の午後。
僕は六畳一間のアパートの、万年床の布団の中で、自分の肺が熱い泥を吸い上げるように呼吸を繰り返していた。脇に挟んだ体温計が平坦な電子音で、僕の肉体が今、内側からじわじわと焼け落ちていることを告げていた。
おでこに貼られた冷感シートの、人工的なミントの匂い。
枕元に置かれた、飲みかけのポカリスエットのペットボトル。その青いラベルに反射する西日が、やけに鋭く僕の網膜を刺す。
僕のケータイは、充電器に繋がれたまま、一度も震えようとしなかった。サークルの連中にとって、僕が一人で熱を出して寝込んでいることなど、世界の砂粒が一つ入れ替わるほどの意味もないのだろう。
それでいい、と僕は思う。誰かに心配されたいわけじゃない。他人の安っぽい同情ほど、この乾いた喉に突っかかって不快なものはないからだ。
それなのに、部屋には、僕以外の呼吸の音が満ちていた。
「渚くん、お粥、もう少し食べられそう?」
枕元に座った遥香が、僕の顔を覗き込んでいた。
彼女は、僕が今朝「熱が出た」と短いメールを一件送っただけで、一時間後にはこの部屋に現れた。手には、近所のスーパーで買ったであろうビニール袋をいくつも下げて。
彼女の着ている白いTシャツからは、いつもの甘いシャンプーの匂いに混じって、どこか冷たい、薬局の棚のような匂いが漂ってくる。
「いらない」
僕は寝返りを打ち、彼女から背を向けた。喉の奥が、真夏の砂浜に放置されたプラスチックのようにひび割れて、まともな声が出ない。
「遥香、今日は大学の講義…午後から大事な発表があるって言ってただろ。どうしてここにいるんだよ」
「そんなの、どうでもいいよ」
遥香の声は、驚くほど穏やかだった。まるで、夕暮れの公園で犬の散歩でもしているかのような、日常の平坦さ。
「渚くんが苦しんでいるのに、大学の教室で黒板を見てるなんて、私にはできないよ。」
「バカじゃないのか」
僕は毛布を頭まで引き上げながら、冷ややかな皮肉を吐き出した。自分を苛むための、いつもの悪い癖だ。
「風邪なんて、一日寝てれば治る。君が自分の単位を犠牲にする理由なんて、どこにもないだろ。そういうのを、世間ではありがた迷惑って言うんだよ」
普通の女の子なら、ここで怒るか、あるいは傷ついた顔をして部屋を飛び出していくだろう。せっかく看病してあげているのに、その言い方は何、と。
けれど、遥香は違かった。
彼女は、毛布の上から僕の肩を、そっと手のひらで包み込んだ。彼女の手は、熱を出している僕の体温よりも、さらに一段、不自然なほど熱かった。その熱が、毛布の繊維を透過して、僕の皮膚へとじわじわと染み込んでくる。
「ありがた迷惑でも、いいよ」
遥香は、じわじわと形を崩していくような笑みを浮かべて言った。
「私はね、渚くんの役に立てるなら、自分の将来なんてどうなってもいいの。渚くんが私を必要としてくれる瞬間だけが、私の世界に色がつく時間だから。だから、そんな風に私を追い返そうとして、無理に意地悪な言葉を探さなくていいんだよ?」
底なしの、全肯定。
その言葉には、僕の冷徹な論理をすべて打ち消して、無意識の奥底に直接冷たい楔を打ち込んでくるような、妙な強制力があった。
彼女には「自分がどうしたいか」というエゴが、最初から綺麗に欠落している。ただ、僕という歪なパズルのピースの、その凹みに合わせて自分の形を無限に変形させているだけの、精密な生き物のように思えた。
部屋の隅に置かれたカラーボックスの上。
そこからは、遥香が持ってきた自作のMDが、低いビットレートの、少しこもった音質で音楽を再生していた。
流れているのは、Do As Infinityの『陽のあたる坂道』。
アコースティックギターの乾いたストロークと、伸びやかで、どこか切ないボーカルの声が、狭いワンルームの壁に反響している。
あまりにも本質的で、だからこそ救いのない歌詞が、熱で朦朧とする僕の脳裏を壊れたレコードのように何度も何度も反芻した。
「……気持ち悪いんだよ」
僕は毛布を跳ね除け、勢いよく身体を起こした。
頭が激しく揺れて、視界の端がぐにゃりと歪む。けれど、僕の胸の奥で煮詰まった割り切れない感情は、もう制御が利かなくなっていた。
「君のそういうところが、本当に不気味だ。どうして自分を大切にしない? どうして僕のために、自分の人生を簡単にドブに捨てられるんだよ。僕は君を救う王子様でもなければ、君のすべてを背負えるような立派な人間でもない。ただの、他人の不幸を斜めから見て嘲笑うだけの、薄汚い大学生だ。君がそんな風にエゴを捨てて僕に同化しようとするたびに、僕は自分の輪郭が、この薄汚い部屋の空気に溶けて消えちまいそうになるんだ」
僕の本音だった。七割か八割、あるいはそれ以上の、僕の根源的な恐怖。
完璧に理解され、全肯定されることは、僕という自意識の「個」の崩壊を意味していた。遥香という沼は、僕を救うフリをして、その実、生きたまま溶かそうとしているのではないか。
僕の荒い呼吸だけが、部屋の静寂を削り取っていく。
MDから流れるサビが、不自然なほどクリアに耳に飛び込んでくる。
遥香は、僕の怒声を浴びながらも、瞬き一つ変えなかった。
彼女の瞳の焦点は、やはり僕の顔を通り抜けて、僕の背後にある、アパートの薄い壁の向こう側の「虚空」を捉えている。
ゆっくりと両手を伸ばし、僕の熱い両頬をそっと包み込んだ。
「いいよ、溶けちゃいなよ」
彼女の手のひらの圧倒的な身体性が、僕の脳の髄まで染み込んでくる。
「渚くんの輪郭が溶けて、どこにもなくなっちゃったら、私がね、その欠片をひとつずつ拾い集めて、私の体の中に全部閉じ込めてあげる。渚くんが、自分を薄汚いって言うなら、私はその薄汚いところごと、全部愛するよ。あなたが誰かを傷つけたいなら、まず私を傷つければいい。私はね、渚くんがそこにいてくれるだけで、それだけで奇跡みたいに嬉しいんだから。だから、もう怒らないで? お薬、飲もう?」
――そこにいてくれるだけで、奇跡。
彼女の声には、微塵の迷いもなかった。
普通の人間なら持っているはずの、自己防衛の本能すら、彼女には最初から備わっていないのだ。その圧倒的な、狂気とも言える優しさに触れた瞬間、僕は激しい自己嫌悪に襲われると同時に、底なしの諦念が僕を満たしていくのを感じた。
敵わない。僕はもう、この彼女の優しい檻から、一生外に出ることはできない。
「……ごめん」
僕は力なく呟き、彼女の手のひらに自分の顔を預けた。それが、僕たちの歪な「仲直り」の儀式だった。
遥香は嬉しそうに目を細め、枕元から白い錠剤と、ポカリスエットのペットボトルを僕に手渡した。僕はそれを、ロボットのような正確さで喉の奥へと流し込む。薬はひどく苦く、それからどこか生ぬるい味がした。
「さあ、お薬が効くまで、ゆっくり寝てね」
遥香は僕を再び布団に横たえ、毛布を優しくかけ直した。
僕は目を閉じた。薬の成分が、熱で疲弊した僕の意識を、ゆっくりと暗い底へと引きずり込んでいく。
――深い、底のない闇だった。
どれほどの時間が経ったのだろう。熱の波が引き、ふと意識の表面へと浮き上がったとき、僕の視界に飛び込んできたのは、あのアパートの歪な木目の天井ではなかった。
白く、均一に塗られた、無機質な天井。
鼻腔を突くのは、あの人工的なミントの匂いではなく、内臓を冷やすような鋭い消毒液の匂い。
そして耳元では、ポータブルMDのこもった重低音の代わりに、「トントントントン」という、一定のテンポを刻む心電図の電子音が冷たく響いていた。
病室、だった。
動かない身体、左腕に突き刺さった点滴のチューブ。世界のグリッドが強制的に書き換えられたような混乱の中、僕は、ベッドのすぐ傍らに佇む人影に気づいた。
遥香だった。
彼女は、いつからそこにいたのだろう。アパートの時と同じ白いTシャツのまま、僕の右手を両手でそっと包み込むようにして、じっと僕の顔を見つめていた。
その顔を見た瞬間、僕の胸の奥で何かが決壊した。
言葉にできないほどの、圧倒的な「安心」が押し寄せてくる。世界がどれだけ狂っても、ここがどこであろうとも、遥香だけは僕の傍にいてくれる。その揺るぎない事実に、僕は激しく安堵した。
けれど、その安心感は、熱の残滓でバグりきった僕の感情を、一気に危険な領域へと沸騰させた。
彼女の全肯定に怯え、不気味だと吐き捨てたはずなのに、今の僕は、彼女の優しい檻がなくては一秒だって息ができない。この圧倒的な安らぎを、絶対に手放したくない。彼女をここから逃がしたくない。
ドロドロとした暗い感情が、僕の喉を激しく突き動かした。
僕は、病人のものとは思えないほどの力で、遥香の手を握り返した。
「遥香……っ」
かすれた声を絞り出し、彼女の、虚空を捉える瞳を、無理やり僕の視線で縫い付ける。
「ずっと、好きでいて。ずっと僕のことを忘れないで」
それは願いでも、愛の告白でもなかった。
僕を全肯定する彼女の狂気を利用し、彼女のこれからの人生も、魂も、すべて僕という歪な存在の底へと永遠に縛り付けるための――卑劣で、逃げ場のない「呪い」の言葉だった。
遥香は、小さく息を呑んだように見えた。
僕の呪いを受け取った彼女の顔に、ゆっくりと、あの酷く柔らかい笑顔が戻ってくる。僕のすべてを、その呪いごと受け入れるための笑み。
なのに。
ベッドの脇に座った彼女の両目からは、大粒の涙が、堰を切ったようにボロボロと溢れ落ちていた。
涙は彼女の白い頬を濡らし、顎のラインを伝って、僕が握る手へと落ちていく。彼女の目元は赤く腫れているわけでもなく、ただ、壊れた蛇口のように、純粋な液体として涙だけが溢れ続けている。
どうして、そんな目で泣くんだ。
僕が呪ったからか。それとも、最初から僕たちは――。
問いかける前に、心電図の音が急に遠ざかり、再び強烈な睡魔が僕の意識を塗り潰していく。
耳の奥で、あの曲の幻聴が、壊れたレコードのように何度も何度も反芻していた。
世界は静かに、そのありふれた日常の中に、僕を閉じ込めたまま、どこかへ滑り続けていた。




