第6話:背中の羽根
第6話:背中の羽根
世界の境界線がどこにあるのか、僕にはずっと分からないままだ。
たとえば、自分の皮膚の一番外側と、そこにくっついている大気との境目。僕という意識が終わり、君という他者が始まる正確な座標。
そういうものを、普通の人間は疑いもせずに信じて生きている。だから平気で他人の手を握れるし、満員電車の中で見知らぬ誰かと肩を並べることができるのだ。
僕にはそれができない。いつだって、自分の指先がどこかで虚空に溶け出しているような、あるいは世界そのものが僕の脳が作り出した質の悪いプロジェクターの光に過ぎないような、そんな頼りない感覚が付き纏っている。
プシュー、という湿った空気の抜ける音がして、電車の重い鉄の扉が閉まった。
その音は、どこか遠い場所で誰かが深く、深くため息を吐いたようにも聞こえたし、精巧に管理された機械が排気を行う音のようにも聞こえた。
駅のホームを離れた中央線の各駅停車は、ひどくゆっくりと加速していく。
どこか薄汚れた緑色とオレンジ色のツートンカラーの車両。車内は驚くほど空いていて、僕たちの他には、部活帰りらしき高校生が二人、離れたロングシートでうつむいてケータイをいじっているだけだった。彼らの首元で、流行りの大きなプラスチック製のストラップが、電車の揺れに合わせて規則正しく揺れている。
僕と遥香は、向かい合わせのボックス席に座っていた。
窓の外には、少しずつ高度を上げていく街並みが、傾きかけた午後の光の中に沈んでいる。遠くに見える山々は、まるで誰かが灰色の絵の具で乱暴に塗り潰したみたいに、のっぺりとした質量でそこに蹲っていた。
「ねえ、渚くん。これ、一緒に聴こう?」
遥香が、自分のポケットからポータブルMDプレイヤーを取り出した。
プレイヤーはあちこちの塗装が剥げていて、彼女がそれをどれほど大切に使い込んできたかを物語っている。液晶画面には、手入力された歪なカタカナの文字が躍っていた。
彼女は白いイヤホンの片方を僕に差し出し、もう片方を自分の耳に押し込んだ。
差し出されたコードは、彼女の体温でほんのりと温かい。僕はそれを、自分の左耳の穴へと滑り込ませる。耳の奥の粘膜に、彼女の熱が直接伝わってくるような生々しさがあった。
カチリ、とプラスチックのボタンが押される音がして、イヤホンの奥からノイズが走る。
流れてきたのは、KinKi Kidsの『僕の背中には羽根がある』だった。
2001年のヒット曲。けれど、2006年の今になっても、街の有線放送や、深夜のラジオから時折思い出したように流れてくる、どこか哀愁を帯びたメロディ。
独特の民族楽器のようなイントロのリズムが、電車のガタゴトという走行音と奇妙にシンクロしていく。
少年っぽさを残した二人の歌声が、僕の右半分を優しく、けれど容赦なく侵食し始める。
「懐かしいね」
僕は、窓ガラスに額を押し付けたまま呟いた。ガラスの冷たさが、僕の思考の熱をじわじわと奪っていく。
「この曲が流行ってた頃、僕たちはまだ中学生だったね。あの頃の世界は、もっと広くて、もっとザラザラしていた気がする。パケット代を気にして送る文字数の少ないメールとか、すぐに電池が切れるケータイとか。そういう不自由さの中に、確かに僕たちの輪郭があったはずなんだ」
「そうかな。私はね、今の方がずっと好きだよ」
遥香は、膝の上に両手を揃えて、僕を見つめていた。
彼女の着ている、薄いベージュのカーディガン。その網目のひとつひとつが、電車の小刻みな揺れに合わせて、まるで生き物の皮膚のように細かく波打っている。
「だって、あの頃はまだ、私と渚くんは出会っていなかったもの。出会っていない時間の世界なんて、私にとっては、ただの色のない背景と同じだよ」
また、それだ。
彼女の言葉は、いつだって僕を世界の中心へと引きずり出す。けれど、その引きずり出し方が、あまりにも全合理的で、エゴというものが一切存在しない。
普通の人間は、もっと自分のために言葉を使う。相手に嫌われたくないからとか、自分を良く見せたいからとか、そういう卑しい下心が言葉の端々にメッキのようにこびりついているものだ。
だが、遥香の言葉にはそれがない。ただ、僕という存在を繋ぎ止めるためだけの、純粋な機能として言葉が紡がれている。
「君は、僕がどんな酷い男でも、同じことが言えるの?」
僕は冷ややかな皮肉を口元に浮かべた。自分を疑うための、いつもの悪い癖だ。
「もし僕が、君の預金通帳を勝手に持ち出して、そのままどこかで行方をくらますような、そんな最低の人間だったとしても?」
「うん。いいよ」
遥香は、一瞬の躊躇もなく微笑んだ。
その微笑みは、あまりにも滑らかで、まるで何度も何度も再生され、磨り減ったビデオテープの特定のフレームのように正確だった。
「渚くんが私のお金を全部使っちゃって、どこか遠くに行きたいなら、そうすればいい。私はね、渚くんが逃げるための足になれれば、それだけでいいの。もし渚くんが誰かを深く傷つけて、世界中から追い回されるようになったら、私があなたの身代わりになって、一番暗い檻に入ってあげる。ねえ、それってすごく素敵なことだと思わない?」
ぞっとするような、優しいズレ。
彼女は、僕を止めることもしないし、叱ることもしない。ただ、僕の破滅を、僕の悪意を、まるで秋の午後の柔らかな日差しを受け止めるみたいに、当然の権利として肯定する。
それは、倫理や道徳といった、人間が長い時間をかけて作り上げてきた「社会のルール」を、綺麗にすり抜けていく狂気だった。
「……君は、本当にバカだな」
僕はため息を吐き、視線を外に逸らした。
電車は、いくつ目かの小さな駅を通り過ぎようとしていた。
ホームのベンチには、誰も座っていない。錆びついた駅名標の文字が、夕暮れの光の中で、一瞬だけ掠れて、まるで存在しない言語のように歪んで見えた。
気のせいか、電車の走る音が、ときどき「トントントントン」という、一定の連続音が耳の奥に響く。
僕は自分の左手を見た。爪の先が、妙に白っぽくなっている。指先を強く擦り合わせてみても、座席のモケットのざらざらとした感触が、どこか遠くの、水の底から伝わってくるように鈍かった。
「渚くん、手が冷たいよ」
気がつくと、遥香が僕の正面から立ち上がり、僕の隣の席に移動していた。
狭いボックス席の中で、彼女の太ももと僕の太ももが、薄い布地を挟んでぴったりと密着する。彼女の体から立ち上る、あの甘いシャンプーの匂いと、微かな、消毒液のような無機質な匂いが混ざり合って、僕の鼻腔をくすぐった。
遥香は、僕の右手を両手で包み込んだ。
彼女の手は、驚くほど熱かった。まるで、体内のすべてのエネルギーを、その小さな手のひらに集中させているかのように、生き生きとした熱が僕の皮膚を、肉を、骨を、じわじわと侵食していく。
「大丈夫だよ。私はどこにも行かないから。渚くんが私を忘れても、私はずっとここにいるよ」
イヤホンからは、ちょうどサビが流れていた。
どこまでもまっすぐで、切ない歌詞。
けれど、今の僕たちには、羽ばたくための羽根なんてどこにもない。僕たちはただ、錆びついたレールの上を、決められた時刻表に従って、ただ移動させられているだけの、無力な人形に過ぎない。
そのとき、電車が長いトンネルへと進入した。
車内が急に暗くなり、天井の蛍光灯の白い光が、不自然なほど鮮明に車内を照らし出す。
窓ガラスは、一瞬にして真っ黒な鏡へと姿を変えた。そこに、並んで座る僕たちの姿が映し出される。
僕は、見てしまった。
暗転したガラス窓に映る、遥香の顔を。
彼女は、僕の右手を痛いほどに強く握りしめながら、いつもの、あの酷く穏やかな、すべてを全肯定するような笑顔を浮かべていた。
なのに。
彼女の両目からは、大粒の涙が、堰を切ったようにボロボロと溢れ落ちていた。
涙は彼女の頬を伝い、顎の先から、僕たちの握り合っている手の甲へとポタポタと落ちていく。その涙の冷たさが、彼女の手のひらの異常な熱量と混ざり合って、僕の皮膚の上で、狂おしいほどの不協和音を奏でていた。
「遥香……、また泣いてるのか?」
僕は彼女の顔を直接見ようと、首を動かそうとした。
けれど、遥香の両手は、僕の右手をギリギリときしむほどの力で固定したまま、どうしても僕に顔を向けさせようとしない。彼女の指先が、僕の肉に深く食い込んでいく。
「泣いてないよ、渚くん」
遥香の声が、耳元のイヤホンから流れる音楽の隙間を縫って、僕の脳内に直接響いた。
その声は、驚くほど平坦で、細かな震えすらも綺麗に削ぎ落とされていた。
「ただね、トンネルの中って、空気がすごく乾燥してるでしょ? だから、目が少し乾いちゃっただけ。気にして、画面を見すぎちゃったから」
「嘘だ。君はいつも泣いている理由を誤魔化してる。」
僕は声を荒らげようとした。けれど、喉の奥に苦い砂が詰まったみたいに、まともな音にならない。
遥香は、僕の手をさらに強く握りしめた。その強さは、もはや人間の筋力を超えているかのように思えた。彼女の熱が、僕の体温を完全に上書きしていく。
「いいの、渚くん。何も考えなくていいの」
遥香は、窓ガラスの向こうの真っ暗な闇を見つめたまま、呪文のように同じ言葉を繰り返した。
「あなたはただ、ここにいて。大好きな音楽を聴いて、私の体温を感じていて。それだけでいいの。ねえ、私の背中には、あなたをどこへでも連れていける羽根があるんだよ? だから、怖がらないで。大丈夫、大丈夫だから……」
彼女の紡ぐ言葉の波が、僕の肥大化した自意識を、ゆっくりと、確実に丸く削り落としていく。
ああ、また逃げられない。
僕は彼女の圧倒的な優しさという名の檻の中に、自ら進んで鍵をかけ、その鍵を暗い海の底へ投げ捨ててしまうのだ。
ガタゴト、と電車が揺れる。
サビのリフレインが、僕の脳内で、壊れた時計の歯車のように何度も何度も反芻していた。
不意に、トンネルを抜けた。
夕暮れの、燃えるような赤い光が、一瞬にして車内をフラッシュのように照らし出す。
窓ガラスに映っていた遥香の涙は、その光の中に綺麗に掻き消され、僕の隣には、ただいつも通りに微笑む、乾いた顔の彼女だけが残されていた。




