第5話:君という奇跡
第5話:君という奇跡
幸せという言葉には、どこか安物のメッキのような胡散臭さが付き纏う。
指先で少し強く引っ掻けば、簡単に剥がれて、下から醜い灰色のプラスチックが顔を出す。そんな頼りないものを、世間の人間たちは随分とありがたそうに神棚に飾っている。
遥香の部屋は、駅から少し離れた築15年の木造アパートの二階にあった。
六畳一間の狭いワンルーム。フローリングの床には、二色組み換え式の正方形のコルクマットが敷き詰められている。窓辺には、発売されたばかりのニンテンドーDS Liteが、充電ケーブルを尻尾のように伸ばして転がっていた。
どこにでもある、ありふれた大学生の日常の断片。
僕はそのコルクマットの上に座り、ローテーブルの上に置かれた二つのマグカップを眺めていた。
雑貨屋で買った、色違いのシンプルなマグカップ。僕のものが深いネイビーで、遥香のものが淡いアイボリー。取っ手の部分がほんの少しだけ欠けているのは、先月、僕が洗っているときにシンクの角にぶつけてしまったからだ。
マグカップからは、淹れたてのコーヒーの白い湯気が、細く、頼りなく立ち上っている。
部屋の空気が、コーヒーの香ばしい匂いと、遥香の使っているシャンプーの甘い匂いで満たされていく。エアコンの風が、窓辺の安いレースのカーテンを僅かに揺らしていた。
「渚くん、お砂糖とミルク、どうする?」
キッチンの向こうから、遥香の穏やかな声が聞こえた。
シンクで水を流す音が、規則正しく部屋の静寂を削り取っていく。
「いらないよ。ブラックがいい。君の淹れるコーヒーは、最初から少し甘い気がするしね」
僕はいつものように、冷ややかな皮肉を混ぜて返した。
実際、彼女の淹れるコーヒーは、どんな豆を使っても、どこか刺々しさが削ぎ落とされた、ひどく丸い味がする。それはまるで、僕を眠らせるための薬のように、喉の奥へ滑らかに吸い込まれていくのだ。
「ふふ、そうかな。特別なことは何もしてないんだけどな」
キッチンから、遥香の小さな笑い声が返ってくる。
部屋の隅に置かれた、三段ボックスの上の小さなラジカセ。
そこからは、自作のMDが再生されていた。スロットの隙間から、青いバックライトが微かに漏れている。
流れているのは、木村カエラの『You』。
軽快なスネアドラムのリズムと、どこまでもまっすぐで、透明な歌声が、狭いアパートの壁に反響している。
あまりにもストレートで、何の疑いも持たない歌詞が、僕の耳の奥を滑り落ちていく。
僕は、自分のケータイを開いた。
液晶画面には、サークルの友人からの未読メールが一件。画面のバックライトが消えると、暗転した画面に自分の顔が映る。
相変わらず、どこか遠くを見ているような、自分の人生にちっとも熱中していない男の顔。
僕はパタン、と携帯を閉じた。プラスチックの噛み合う、乾いた音がした。
この部屋にいると、自分がまるで、丁寧に切り取られた絵本の一ページの中に閉じ込められているような錯覚に陥る。
外の道路を走るトラックの排気音も、遠くの踏切の警報機も、すべてがこの部屋の薄い壁に遮られて、水中に沈んだ音のように遠く、ぼやけて聞こえる。
そのとき、キッチンの方から、微かな音が聞こえた。
水を流す音の隙間から、ひどく小さく、けれど決定的に異質な音が混じる。
――ひっ、と、息を吸い込むような音。
それは、喉の奥を強制的に締め付けられた人間が、どうしても堪えきれずに漏らしてしまった、嗚咽の音だった。
僕は視線をキッチンへと向けた。
遥香は背中を向けて立っていた。白いノースリーブのワンピース。彼女の細い肩が、ほんの少しだけ、痙攣するように上下に揺れている。
「遥香……?」
僕は声をかけた。
水を流す音が、突然、ひどく大きく耳の奥に響いた気がした。
「あ、ごめんね、渚くん。ちょっと待ってね」
遥香はすぐに振り返った。
彼女は、笑っていた。コルクマットのように、コーヒーの湯気のように、いつもと全く変わらない、僕のすべてを受け入れるための、あの酷く柔らかい笑顔。
なのに、彼女の両目からは、大粒の涙が、堰を切ったようにボロボロと溢れ落ちていた。
涙は彼女の白い頬を濡らし、顎のラインを伝って、シンクの中にポタポタと落ちていく。排水口のステンレスに当たる涙の音が、僕の脳の底を直接叩くように冷たく響いた。
「どうしたんだよ。何かあった?」
僕はローテーブルから立ち上がり、キッチンへと歩み寄った。
彼女の目元は赤く腫れているわけでもなく、ただ、蛇口から流れ出る水のように、純粋な液体として涙だけが溢れ続けている。その光景には、やはり人間の感情の起伏というものが、決定的に欠落しているように見えた。
「ううん、なんでもないの」
遥香は、濡れた手で自分の目元を軽く拭った。けれど、涙は次から次へと溢れてきて、止まる気配がない。
「ただね、玉ねぎが染みちゃっただけ。夕ご飯のスープに入れようと思って、切ってたから」
遥香はそう言って、まな板の上を指差した。
そこには確かに、細く切られた玉ねぎが置かれていた。
けれど、僕は知っている。
玉ねぎが目に染みて泣くとき、人間はもっと目を細めたり、顔を顰めたり、痛がったりするものだ。こんな風に、狂おしいほど穏やかな笑顔のまま、焦点の合わない目で涙だけを流し続けることなんて、絶対にあり得ない。
彼女の嘘は、いつもひどく雑で、そして決定的に何かがズレている。
まるで、あらかじめ決められた台詞を、ただ順番に読み上げているだけのような、不気味な正確さがあった。
「嘘だろ」
僕は冷ややかな声を絞り出した。喉の奥が、真夏の砂浜に放置されたプラスチックのように、カラカラに乾いていく。
「玉ねぎのせいじゃない。君はずっと何かを隠してる。君はいつもそうやって、突然わけのわからない涙を流す。僕が何か、君を傷つけるようなこと言った?」
僕は、遥香の細い肩を掴もうとして、すんでのところで手を止めた。
彼女の皮膚に触れるのが、怖かった。その下を流れている、沸騰したお湯のような異常な熱量に、自分の指先が焼き切られてしまいそうな恐怖があった。
遥香は、僕の止まった手を見つめ、それからゆっくりと僕の顔に視線を戻した。
彼女の瞳の焦点は、やはり僕の顔を通り抜けて、僕の背後にある、アパートの薄い壁の向こう側の「虚空」を捉えていた。
「傷ついてないよ、渚くん。私はね、今、世界で一番幸せなんだよ?」
遥香は、溢れる涙を拭おうともせず、歌うようなトーンで言った。
「こうして、渚くんと同じ部屋にいて、お揃いのマグカップでコーヒーを飲んで、私の大好きな音楽を一緒に聴いてる。これ以上の幸せなんて、どこを探したってないよ。だからね、この涙は、ただの『おまけ』みたいなもの。幸せが、私の体の器から少しだけ溢れちゃっただけなの」
器から溢れた、おまけ。
彼女の紡ぐ言葉には、僕の論理的な思考を綺麗にバイパスして、無意識の奥底に直接冷たい楔を打ち込んでくるような、妙な強制力があった。
「幸せなら、どうしてそんな風に、世界の終わりみたいな目で僕を見るんだ」
僕は自嘲気味に微笑んだ。自分の声が、微かに震えているのを自覚する。
「君の言う幸せは、僕にはまるで、完璧に管理された檻みたいに見える。僕はもっと、薄汚くて、意地悪で、誰かを傷つけずにはいられない、どうしようもない人間だよ。君がそんな風に、僕のすべてを完璧に肯定して『動く背景』になるなんて言うから、僕は自分の輪郭がどんどん溶けて、この部屋のコーヒーの湯気に混ざって消えてしまいそうになる」
僕の本音だった。七割か八割、あるいはそれ以上の、僕の根源的な恐怖。
理解されたいと願う一方で、完璧に理解され、全肯定されることは、自分の自意識という名の「個」を失うことと同義だった。遥香という底なしの優しい沼に、生きたまま溶かされていく感覚。
普通の女の子なら、ここで僕の面倒な自意識に愛想を尽かすか、あるいは私の気持ちを分かってくれないと泣き叫ぶはずだった。
けれど、遥香はやはり違った。
彼女はじわじわと形を崩していくような笑みを深め、濡れた両手で、僕の両頬をそっと包み込んだ。
「いいよ、溶けちゃっても」
彼女の手のひらは、エアコンの冷気で冷え切った部屋の中で、そこだけが別の生き物のように熱かった。その圧倒的な身体性が、僕の頬の皮膚を通じて、脳の髄まで染み込んでくる。
「渚くんの輪郭が溶けて、この部屋の空気に混ざっちゃったら、私はね、毎日その空気を胸いっぱいに吸い込んで生きるよ。渚くんがどこにも行かないように、私の体の中に、ずっと閉じ込めてあげる。だから、自分がどうしようもない人間だなんて、そんな風に自分を苛めないで。私はね、渚くんのその意地悪な言葉も、冷たい目も、全部、全部大好きなの。渚くんがそこにいてくれるだけで、私はそれだけで、奇跡みたいに嬉しいんだよ?」
――そこにいてくれるだけで、奇跡。
遥香の声には、微塵の迷いも、エゴの匂いもなかった。
彼女は本当に、僕という存在を全肯定するためだけに、この部屋に配置された精密な機械のようだった。彼女には、自分を大切にしたいという本能すら、最初から備わっていないかのようだった。
その圧倒的な優しさに触れた瞬間、僕の胸の奥で、カチリ、と何かが噛み合う音がした。
逃げられない。
僕はもう、この彼女の優しい檻から、一生外に出ることはできないのだという、底なしの諦念が僕を満たしていく。
「……君には、敵わないな」
僕は力なく呟き、彼女の手のひらに自分の顔を預けた。
ラジカセからは、なおも『You』が流れている。
サビのフレーズ。その伸びやかな声が、ほんの一瞬、引き伸ばされたテープのように「間延び」した気がした。
キッチンを流れる水の音が、一瞬だけ、規則正しいノイズ――「ピー」という、あの平坦な警告音に重なった気がした。
けれど、僕が瞬きをすると、世界は何事もなかったかのように収まった。
「さあ、コーヒーが冷めちゃうよ。テーブルに戻ろう?」
遥香はそう言って、僕の頬から手を離し、濡れた顔をエプロンの端で無造作に拭った。
彼女はもう泣いていなかった。その目元には、最初から涙など一滴も流れていなかったかのように、乾いた、穏やかな日常が戻っていた。
僕たちはローテーブルに戻り、並んでコルクマットに腰掛けた。
欠けた取っ手のマグカップを持ち上げると、コーヒーはすでに、すっかり生ぬるくなっていた。それを口に含むと、やはりいつもと同じように、どこか不自然なほど丸くて、甘い味がした。
窓の外では、九月の少し傾いた太陽が、アパートの薄いカーテンをうっすらと赤く染め始めている。
その光が、ローテーブルの上の二つのマグカップの影を、東の壁に向かって、長く、長く引き延ばしていた。
耳の奥で、あの曲が、壊れたレコードのように何度も何度も反芻している。
世界は静かに、そのありふれた幸せのピークのまま、微動だにせずそこに固定されていた。




