第4話:愛の定義
第4話:愛の定義
世界は時々、ひどく都合のいいプラスチックの玩具のように見える。
灰色のダッシュボード、100円ショップで買ったシトラスの芳香剤、フロントガラスの隅に貼り付けられた車検のシール。どれもが安っぽく、それゆえに圧倒的な現実味を持ってそこに存在していた。
僕が握っているのは、サークルの先輩から格安で譲り受けた、マニュアル仕様の古い軽自動車のステアリングだ。
シフトレバーをサードからトップに放り込むたび、トランスミッションの奥から「ガコッ」という、骨が軋むような無骨な振動が手のひらに伝わってくる。
喉の渇きも、エアコンの吹き出し口から吹き出す、すこしカビ臭い冷気の冷たさも、すべてが日常だ。
サークル棟の部室で、遥香の指先に目を塞がれたあとの記憶は、どこか霧の彼方に消え失せている。
気づけば僕は、9月の生ぬるい風を切り裂きながら、バイパスを走っていた。助手席には、白いノースリーブのワンピースを着た遥香が、いつもと変わらない穏やかな笑みを浮かべて座っている。
「渚くん、運転上手になったね」
遥香が、カーステレオの液晶パネルを細い指先で弄びながら言った。
自作のMDがスロットに吸い込まれていく。オーディオデッキの狭い画面に、16セグメントの荒い液晶文字が躍った。
『愛のために』――奥田民生。
1994年のヒット曲だ。2006年の今となっては、少しだけ時代遅れのノスタルジーを孕んだそのイントロが、チープなドアスピーカーから流れ出す。歪んだギターの音が、狭い車内を瞬く間に満たしていった。
「上手になったんじゃないよ。この車が、僕の言うことを聞かないと今すぐ分解してやるって脅しをかけてくるから、必死に合わせてるだけさ」
僕はバックミラーに視線を走らせながら、冷ややかな皮肉を口にした。
ミラーに映る自分の顔は、相変わらずひどく退屈そうで、どこか自分の人生を映画館の最後列から眺めているような、希薄な目をしている。
国道沿いには、巨大な紳士服の看板や、色褪せたTSUTAYAのロゴが、まるで終わりのないスライドショーのように後ろへと流れていく。
ロードサイドの植え込みに植えられたツツジの葉が、排気ガスでうっすらと白く汚れているのが見えた。そんなゴミのような光景だけが、僕の脳の表面に妙に鮮明に刻み込まれる。
「でも、私は渚くんのそういう、世界に対してちょっと意地悪なところ、すごく好きだよ」
遥香は、窓の外を流れる景色から視線を戻さずに言った。
カーステレオからは、あの軽快で、どこか肩の力が抜けたサビのフレーズが流れている。
「愛のために、か」
僕は鼻で笑うようにして、そのタイトルを口の中で反芻した。
「21歳にもなって『愛のために生きる』なんて大文字の正論を真に受けてる奴がいたら、脳の構造を疑った方がいい。誰かのために生きるなんて、突き詰めれば自分を正当化するための言い訳だし、ただの依存だよ。愛なんてものは、一人で生きていくのが寂しい人間たちが、お互いの体温を分け合って誤魔化すための、ただの互助会みたいなものさ」
自分で言いながら、なんて底意地の悪い台詞だろうと思う。
付き合いたての恋人が、ドライブデートの最中に口にする言葉ではない。僕はいつもこうして、他人が差し出してきた温かい感情のスープに、一滴の毒を混ぜずにはいられないのだ。そうしなければ、自分がその温かさに溺れて、自意識の輪郭が溶けてしまいそうになるから。
普通の女の子なら、ここで怒るか、あるいは呆れた顔をして黙り込むはずだった。
けれど、遥香は違った。
彼女はじわじわと形を崩していくバターのような、例の酷く柔らかい笑みを僕に向けた。
「そうだね。渚くんの言う通りだと思う」
彼女の細い指先が、ダッシュボードの上で小さくリズムを刻む。
「誰かのために生きるなんて、ちょっと大袈裟だよね。でもね。もし渚くんが一人で生きるのが寂しくて、誰かの体温で誤魔化したいなら、私はいつでも渚くんの都合のいい毛布になるよ。渚くんが私のことをただの『互助会』だと思ってもいいの。私はただ、渚くんが『ここにいてもいいんだ』って思えるための、動く背景みたいになれたら、それで十分だから」
――動く背景みたいになれたら、それで十分。
遥香の声には、微塵のへりくだりも、無理をしているようなニュアンスも含まれていなかった。
まるで「明日の晩ご飯は何にしようか」と相談するような、あまりにも純粋で、あまりにも底なしの優しさに満ちたトーンだった。
ゾッとするような、冷たい寒気が僕の背筋を駆け抜ける。
彼女の理解は、いつも僕の予想の斜め上をいき、迅速に、そして決定的に何かがズレている。彼女には、自分のプライドや「こう扱われたい」というエゴが、最初からそっくり欠落しているかのように見える。僕という存在を肯定するためなら、自分という個の尊厳すら、彼女は笑顔のまま平気で差し出してしまうだろう。
喉の奥が、真夏の砂浜に何日も放置されたプラスチックのバケツみたいに、カラカラに乾いていく感覚がした。
「……変な奴だな。普通はもっと、大切にされたいとか言うもんだよ」
「大切にされてるよ、今だって。こうして渚くんの助手席に座らせてもらってるんだもん。私には、もう渚くんの車の匂いが染み付いちゃってるよ」
遥香はそう言って、僕の左手に自分の手を重ねてきた。恋人繋ぎ。
彼女の手のひらは、エアコンの冷気で冷え切った車内の中で、そこだけが異常なほどの熱を持っていた。まるで、沸騰したお湯をそのまま皮膚の下に通しているかのような、圧倒的な身体性。
その熱量に触れた瞬間、僕の脳裏に、強烈な自己懐疑が鎌首をもたげた。
僕は今、本当にこの車を運転しているのだろうか。
この流れる景色は、本物なのだろうか。
なぜ、僕たちの名前はスピッツの曲と同じなのだろう。なぜ、僕の隣には、僕のどんな歪んだ内面も完璧に理解し、そして優しく受け止めてくれる人間が座っているのだろう。
理解されたい、と願っていたはずだった。
自分の肥大化した自意識を、誰かに丸ごと受け止めてほしいと、ずっと心の奥底で渇望していた。
なのに、こうして完璧に理解され、その優しい檻の中に閉じ込められた瞬間に、逃げ出したいような妙な緊張感が這い上がってくる。
「渚くん、どうしたの? 手が震えてるよ」
「……なんでもない。ただ、少し目が眩んだだけさ」
カーステレオの奥田民生は、なおも歌い続けている。
その声が、ほんの一瞬、引き伸ばされたゴムのように「間延び」した気がした。液晶パネルの文字が、一瞬だけ砂嵐のようにブレた気がした。
けれど、僕が瞬きをすると、世界は何事もなかったかのように正常な日常のグリッドへと収まった。
車は長い跨線橋を上り始める。
視界が開けた瞬間、フロントガラスの向こう側に、言葉を失うほどの圧倒的な夕焼けが広がった。
9月の、少し傾いた太陽。それは朱色というよりは、どす黒い血液を水で薄めて引き延ばしたような、酷く鮮やかな赤だった。
その強烈な光が、中古の軽自動車の車内を、容赦なく真っ赤に染め上げていく。
ダッシュボードも、僕の両手も、遥香の白いワンピースも、すべてがその赤の中に溶けて、境界線を見失っていくようだった。
「綺麗だね……」
遥香が、呟いた。
僕は、彼女の横顔を盗み見ようとして――息を呑んだ。
遥香は、笑っていた。
さっきまでの、あの穏やかで、僕のすべてを肯定してくれるような、優しい笑顔のままだった。
なのに、彼女の両目からは、大粒の涙が、堰を切ったようにボロボロと溢れ落ちていた。
声をあげるわけでもなく、肩を震わせるわけでもない。あのフェスの帰り道とも、サークル棟の部室とも全く同じ、唐突で、静かな、けれど圧倒的な量の涙。
涙は彼女の頬を伝い、顎のラインを濡らし、白いワンピースの胸元に、どす黒い小さなシミをいくつも作っていく。
「遥香……? どうしたんだよ。どこか具合でも悪いのか?」
僕は動転し、バイパスの狭い路肩に無理やり車を寄せた。ハザードランプの規則正しい「カチ、カチ」という電子音が、車内に虚しく響き渡る。
遥香は、溢れる涙を拭おうともせず、いつもの、僕のすべてを肯定してくれる優しい笑顔のまま、僕を見つめていた。
だが、その瞳の焦点は、やはり僕の顔を通り抜けて、僕の背後にある何もない「虚空」に、完全に固定されていた。その瞳の奥にあるのは、底なしの、言葉にできないほどの絶望と、それを覆い隠すような、歪なまでの絶対的な優しさだった。
「うううん、なんでもないの、渚くん。ただね……嬉しくなっちゃったの」
遥香は、狂おしいほど穏やかな声で言った。
「渚くんが、私を気にしてくれて、心配してくれて……。まだ私の音楽が、渚くんに届いてる。渚くんが、ちゃんと私を助手席に乗せて、一緒に走ってくれてるんだなって」
「何言ってるんだよ、遥香。僕はここにいるし、一緒にドライブしてるじゃないか。音楽だって、カーステレオからちゃんと聴こえてる」
僕は笑おうとした。彼女の言葉の決定的な「ズレ」を、ただのちょっとした情緒不安定として片付けようとした。
けれど、僕の喉は引き攣って、上手く笑うことができなかった。喉の奥に、苦い砂が詰まったような感覚がして、呼吸が浅くなる。
「うん。そうだね。聴こえてるよね」
遥香は僕の頬に、自分の熱い手のひらを添えた。
彼女の涙が、僕の皮膚に触れて、じわりと蒸発していくような錯覚を覚える。
「だからね、渚くん。私がずっと、ここで次の曲をかけてあげるから。渚くんが寂しくないように、ずっとここで音楽を流し続けてあげるから……だから、怖がらないで?」
「遥香、君は――」
彼女のセリフの核心に、僕の論理が追いつこうとした瞬間。
――カーステレオから流れる『愛のために』の音が、一瞬、激しく歪んだ。
まるで、再生機器の電源が急激に落ちていくときのような、不気味なスローモーション。
音楽の底から、微かに、平坦で規則正しいノイズが聞こえた気がした。
ハザードランプの「カチ、カチ」という音が、徐々に遠ざかっていく。
耳の奥で、あの歌詞が、壊れたレコードのように何度も何度も反芻している。
――僕らの行く手に、悲しみなんてないさ。




