第3話:君と飛べる空
第3話:君と飛べる空
目が覚めると、視界を遮っていたあのモノクロームの残像は消え失せ、世界はひどく鮮やかな緑と灰色に塗り替えられていた。
背中に感じるのは、サークル棟の部室にある、合皮の表面がひび割れて中の黄色いスポンジが覗いている、あの安物のソファの感触だ。
天井を見上げると、夏の間に死んだ虫の死骸がいくつか張り付いたままの蛍光灯が、微かにジーという不快な高周波を立てて震えている。
僕は、生きていた。
いや、生きている、というよりは、ただそこに配置されているといった方が正しいかもしれない。喉の奥が、真夏の砂浜に何日も放置されたプラスチックのバケツみたいに、カラカラに乾ききっている。
「あ、目が覚めた?」
視界の端から、ふわりと白い影が滑り込んできた。
遥香だった。
彼女は僕の顔を覗き込み、それから、熱したフライパンに落としたバターのように、じわじわと形を崩していくような、酷く柔らかい笑みを浮かべた。その手には、ラインストーンでデコレーションされたガラケーが握られている。
「……遥香? 僕、さっき、交差点で」
「何言ってるの、渚くん。ずっとここでお昼寝してたんだよ。サークル棟、冷房が効きすぎて寒かったでしょう?」
彼女はそう言って、僕の胸元までパイル地のタオルケットを丁寧に引き上げた。
お昼寝。
彼女の口から出たその呑気な名詞が、僕の脳の皺の間に冷たい水を流し込むようにして、さっきまでの記憶を薄めていく。
あの凄まじい金属音。自分の骨が冬の朝の霜柱みたいにパキパキと砕ける、あの内側からの痛覚。アスファルトに広がっていった、鉄の匂いのする生暖かい液体。
それらはすべて、僕の肥大化した自意識が見せた、質の悪い白昼夢だったのだろうか。
僕は自分の両手を顔の前に突き出し、何度も握ったり開いたりしてみた。爪の隙間にも、手の甲にも、血の跡なんてどこにもない。ただ、自分の皮膚の輪郭が、いつもよりほんの少しだけ薄く、水に溶けた絵の具のように頼りなく感じられるだけだ。
「渚くん、本当にびっくりするくらい、うなされてたんだよ」
遥香はソファの傍らにパイプ椅子を寄せ、そこに腰を下ろした。
彼女の膝の上には、ポータブルMDプレイヤーが置かれている。液晶リモコンの細長い画面には、2006年の僕たちが何度となく巻き戻した、あのバンドの曲名が流れていた。
ビクターのクリップ式のイヤホンからは、シャカシャカというチープな音漏れと一緒に、哀愁を帯びたイントロのメロディが微かに聞こえてくる。
「……スピッツ?」
「うん。『空も飛べるはず』。渚くんが寝てるとき、ずっとリピートしてたの。この曲を聴いてるとね、なんだか、すごく安心するから」
安心。
彼女はその言葉を、まるで自分自身に言い聞かせるように、小さな声で二度繰り返した。同じ言葉を何度も反芻する彼女の唇は、少しだけ白く乾いているように見えた。
「ねえ、遥香。僕、本当に車に跳ねられたりしなかった?」
「しなかったよ」
遥香は即座に、しかしどこまでも穏やかに首を振った。
その淀みのない肯定が、逆に僕の胸の奥に、小さな、けれど決して消えない虫食いのような違和感を残す。
「渚くんはここにいるよ。私の目の前に、ちゃんと、生きて、座ってる。それ以外に、何が確かなの?」
「……そうだね。僕が僕を疑うのは、いつもの悪い癖だ」
世界を斜めから見ることで、自分という器の脆さを誤魔化してきた。自分の感覚すら信じられないから、僕はこうして、他人の言葉の中に自分の居場所を探してしまう。
窓の外では、9月の少し傾いた太陽の光が、サークル棟のベランダに干されたままの雑巾を白く照らし出していた。風が吹くたびに、その雑巾が、まるで首を吊った生き物のように弱々しく揺れている。そんな無意味な光景が、なぜか僕の網膜に焼き付いて離れなかった。
「渚くん、お腹空いてない? 下の購買で、焼きそばパンでも買ってこようか」
「ううん、大丈夫。それより、そのMD、片耳貸してよ」
遥香は少しだけ驚いたように目を見張り、それから「いいよ」と嬉しそうに微笑んだ。
彼女の細い指先が、自分の右耳からイヤホンを外し、僕の左耳へと差し込んでくる。その瞬間、彼女の指先が僕の耳たぶに触れた。
熱い、と思った。
彼女の体温は、冷房の効きすぎた部室の空気の中で、そこだけが沸騰しているかのように、異常なほどの熱を持っていた。
イヤホンから、クリアなアコースティックギターの音が僕の鼓膜を震わせる。
10年以上も前の曲のはずなのに、2006年の今聴いても、まるで僕たちのために作られた曲であるかのように、生々しく胸に刺さる。
「私ね、この曲の歌詞、すごく好きなの」
遥香が、僕の肩にそっと自分の頭を預けてきた。
白いノースリーブのワンピースから、彼女のシャンプーの、すこし安っぽいフローラルの香りが漂う。
「ねえ、渚くん。もし、本当に空を飛べるようになったら、渚くんはどこに行きたい?」
「さあね。僕みたいな地面を這って生きるのがお似合いの人間が、空なんて飛んだら、気圧のせいで頭が破裂しちゃうよ。せいぜい、自販機の下に落ちてる10円玉を上から眺めるくらいが関の山さ」
冷徹な皮肉を口にすることで、僕は彼女との距離を保とうとする。付き合いたての恋人らしい、甘い空気の中に、完全に溶けてしまわないように。
けれど、遥香は僕のひねくれた言葉を、まるで極上の賛辞であるかのように、真っ直ぐに受け止めるのだ。
「ふふ、渚くんらしいね。でも、もし渚くんの頭が破裂しそうになったら、私が両手でぎゅって支えてあげる。」
その言葉は、恋人同士の軽口としては、やはりどこか、数パーセントだけ決定的にズレていた。
彼女はそれを、悪気も、衒いもなく、純粋な、底なしの優しさのままで口にする。「この人は聖人なのか」と錯覚するようなその美しさの裏側に、ぞっとするような危うさが同居している。
彼女の指が、僕の左手のひらに滑り込んできて、指を絡ませた。恋人繋ぎ。
その手のひらの圧倒的な熱量が、僕の不確かな輪郭を、無理やりこの世界に繋ぎ止めているような気がした。
「ねえ、渚くん」
「ん?」
「大好きだよ」
あまりにも唐突で、あまりにもストレートな告白だった。
僕は言葉に詰まる。論理的な思考回路が、彼女の真っ直ぐな感情の前に、一瞬でシャットダウンしてしまう。世界を斜めから見るための僕の眼鏡が、彼女の吐息で真っ白に曇らされていくようだった。
「……僕も、だよ」
消え入りそうな声でそう答えると、遥香は満足したように、僕の肩にさらに深く体重を預けてきた。
窓の外の風が強くなり、アルミのサッシがガタガタと小さな音を立てる。
その音が、なぜか僕の耳には、廊下を急ぎ足で通り過ぎる、誰かの足音のように聞こえた。
完璧なまでの日常。付き合いたての、甘くて、少し気恥ずかしい、ありふれた幸せの風景。
このまま、この部室の中で、スピッツの曲を何周も聴きながら、夕暮れが来るのを待っていればいい。そう、自分に言い聞かせた、その時だった。
トツ、と、僕の鎖骨のあたりに、冷たい水滴が落ちた。
「……え?」
見上げると、遥香の顔があった。
彼女は、笑っていた。
さっきまでの、あの穏やかで、僕のすべてを肯定してくれるような、優しい笑顔のままだった。
なのに、彼女の両目からは、大粒の涙が、堰を切ったようにボロボロと溢れ落ちていた。
声をあげるわけでもなく、顔を歪めるわけでもない。あのフェスの帰り道と同じ、唐突で、静かな、けれど圧倒的な量の涙。
涙は彼女の頬を伝い、顎のラインを濡らし、僕のパイル地のタオルケットに、どす黒い小さなシミをいくつも作っていく。
「遥香……? どうしたの? どこか痛むの?」
僕は戸惑い、彼女の肩を掴んで自分の方を向かせようとした。
しかし、遥香の視線は、僕の顔を通り抜けて、僕の背後――部室の壁の向こう側にある、何もない「虚空」に固定されていた。
その瞳の奥にあるのは、底なしの、言葉にできないほどの絶望と、それを覆い隠すような、歪なまでの絶対的な優しさだった。
「うううん、なんでもないの、渚くん」
遥香は、溢れる涙を拭おうともせず、狂おしいほど穏やかな声で言った。
「ただね……嬉しくなっちゃったの。渚くんが、ちゃんと私を呼び捨てにしてくれて、私の手を握ってくれて……。ああ、よかった、私の音楽が、渚くんに届いてるんだなって」
「……何言ってるんだよ。イヤホン、片耳ずつ聴いてるんだから、届くに決まってるじゃないか」
僕は笑おうとした。彼女の言葉の「ズレ」を、ただのちょっとした情緒不安定として処理しようとした。
けれど、僕の喉は引き攣って、上手く笑うことができなかった。喉の奥に、苦い砂が詰まったような感覚がして、呼吸が浅くなる。
「うん、そうだよね。届いてるよね」
遥香は僕の頬に、自分の熱い手のひらを添えた。
彼女の涙が、僕の皮膚に触れて、じわりと蒸発していくような錯覚を覚える。
「だからね、渚くん。もう一回、寝ていいよ…。次の曲をかけてあげるから……だから、目を閉じて?」
「遥香、何を――」
彼女のセリフの核心に、僕の論理が追いつこうとした瞬間。
イヤホンから流れる『空も飛べるはず』のサビのメロディが、一瞬、激しく歪んだ。
まるで、カセットテープが伸びたときのような、あるいは、再生機器の電源が急激に落ちていくときのような、不気味なスローモーション。
音楽の底から、微かに平坦なノイズが聞こえた気がした。
けれど、遥香が僕の目をその細い指先でそっと塞ぐと、そのノイズは再び、美しいアコースティックギターの音色へと掻き消されていく。
視界が、彼女の指の隙間から、ゆっくりと暗転していく。
あたたかくて、冷たい、不思議な静寂が、僕をもう一度ソファの奥深くへと沈み込ませていった。
耳の奥で、あの歌詞が、壊れたレコードのように何度も何度も反芻している。
――君と出会った奇跡が、この胸にあふれてる。




