第2話:色づく世界
第2話:色づく世界
恋人、という新しいラベルが僕たちの間に貼られてから、ちょうど2週間が経っていた。
粘着力の弱いシールのように、それは風が吹けばすぐに剥がれてしまいそうで、僕はポケットの中で何度もケータイの液晶を開いては、通話履歴の最上段にある「秋元遥香」という4文字を確認してしまう。
確認するたび、指先が微かに熱を持つ。その熱が、僕自身の不確かな輪郭を少しだけ繋ぎ止めてくれるような気がしていた。
2006年、9月の初頭。
夏の名残りがアスファルトにしつこくへばりついている午後、駅前のスクランブル交差点は、お揃いのスクールバッグを持った高校生や、買い物袋を下げた主婦たちでごった返していた。
頭上の巨大な街頭ビジョンからは、Kaoru Amaneの『タイヨウのうた』が、これでもかという大音量で鳴り響いている。この夏、誰もが耳にした大ヒット曲。哀愁を帯びたアコースティックギターの音色と、どこか儚げな歌声が、湿った排気ガスと混ざり合って、街の皮膚を包み込んでいく。
「お待たせ、渚くん」
背後からかけられた声と一緒に、僕のノースリーブの腕に、ひんやりとした何かが触れた。
振り返ると、遥香がはにかんだような笑みを浮かべて立っていた。彼女の手には、マクドナルドの紙袋と、結露で水滴を滴らせたコーラのカップが握られている。
「ううん、今来たところ。そのコーラ、僕の?」
「うん。渚くん、炭酸好きでしょう?」
彼女はストローを僕の唇の前に差し出してきた。
促されるままに口に含むと、強烈な糖分と炭酸の刺激が喉を突き刺す。冷たさが食道を通って胃に落ちていく感覚が、妙に生々しい。
「美味しい。ありがとう、遥香」
初めて、呼び捨てで呼んでみた。
心臓の奥が跳ねる。遥香は驚いたように目を見張り、それから嬉しそうに顔を上気させた。
「もう1回言って?」
「……言わないよ。ほら、歩こう」
白いノースリーブのワンピース。彼女が動くたびに、鎖骨のくぼみに溜まった光が、水面のようにきらきらと跳ねる。付き合い始めて初めての、大学もバイトもない、本当のデート。
僕たちは、目的もなく歩き始めた。街を歩く恋人たちという、ありふれた日常の記号の中に、自分たちをそっとあてはめていくように。
通りがかったゲームセンターの脇で、誰かが落としたと思われる、半分潰れたソフトクリームが、じわじわとコンクリートに溶け広がっていた。蟻の列が、その白い液体に静かに群がっている。
「ねえ、渚くん。写真撮ろうよ」
遥香が、ラインストーンでデコレーションされたケータイを僕に向けた。
200万画素そこそこのチープなレンズが、僕の視界を捉える。液晶画面に映る僕たちは、どことなく色褪せていて、引き延ばせばすぐに砂嵐になって消えてしまいそうだった。
「はい、チーズ」
カシャ、という間の抜けたシャッター音が響く。
画面を確認した遥香は、「あ、渚くん、ちょっと緊張してる」と楽しそうに笑った。その笑顔を見るだけで、僕の胃の奥がキュンと締め付けられるように切なくなる。
世界を斜めから見ることで、自分を守ってきたはずだった。 僕の皮肉なんて、彼女の差し出す真っ直ぐな好意の前では、夏の終わりに干からびたミミズの死骸くらいに無意味で、無力だった。
「これ、待ち受けにしても良い?」
「……恥ずかしいから、フォルダの中にしまっておいてよ」
「えー、ケチ。じゃあ、赤外線で渚くんの携帯にも送るね。」
端末の先端同士を近づけ、不可視の光線でデータを交わす。
境界線を越えて、僕のケータイの中に遥香の笑顔が滑り込んでくる。付き合っている、という事実が、甘酸っぱい果汁のように僕の脳内にじわりと染み渡っていく。
「私ね」
遥香が、僕のシャツの袖をきゅっと掴んだ。
「渚くんと付き合えて、毎日がすごく眩しいの。ビルの陰に入っても、夜になっても、ずっと太陽が沈まないみたいに。ずっと、心がじりじりと焼けてるの」
その言葉は、恋人同士の囁きとしては、少しだけ熱を帯びすぎていた。
心が焼ける。そんな生々しい比喩を口にする彼女の耳たぶは、夕暮れよりも赤く染まっている。
「大袈裟だな。心が焼け焦げたら、僕の隣にいられなくなっちゃうよ」
「……もう、からかわないでよ。でもね、本当にそれくらい、渚くんのことで頭がいっぱいなの。明日も明後日も、ずっとずっと、こうやって隣にいたいな、なんて……。」
遥香は両手で顔を覆い、指の隙間から上目遣いで僕を見た。付き合いたての恋人特有の、甘くて少し気恥ずかしい空気が、僕たちの間に優しく流れる。
ぞくりとした愛おしさが背筋を駆け上がった。彼女の純粋な可愛さは、いつだって僕の想像を超えて、僕の心の奥深くまで侵食してくる。けれど、その侵食が、たまらなく心地よかった。
自販機の下の隙間に、錆びついた10円玉が落ちているのが見えた。誰も気づかないまま、何年もあそこに放置されているのだろう。
夕暮れが街を紫とオレンジのまだら模様に染め上げる頃、僕たちは再び駅前のスクランブル交差点に戻ってきた。
デートの終わりが近づいている。その寂しさを紛らわせるように、僕は彼女の手をそっと握りしめた。今度は、僕の方から。
「楽しかったね、遥香」
「うん……うん! 最高の1日だった、渚くん」
信号は赤だった。
僕たちは、横断歩道の手前で足を止め、青に変わるのを待っていた。
頭上の街頭ビジョンでは、またあの『タイヨウのうた』のミュージックビデオが流れ始めていた。ひまわりの花が揺れる映像。
恋が成就した、その完璧な瞬間の余韻に、僕は深く浸っていた。このまま、彼女とどこまでも歩いていける。この甘い時間が、永遠に続けば良い。そう心から信じていた。
――その時だった。
「……あ」
遥香の小さな呟きが、僕の耳に届いた。
隣を見ると、彼女は街頭ビジョンを見上げたまま、動かなくなっていた。
彼女の瞳から、大粒の涙が、一筋、静かに零れ落ちた。
声をあげるわけでもなく、顔を歪めるわけでもない。フェスの帰り道と同じ、あの唐突で、静かな涙。
けれど、今回の涙は、あの時よりもずっと激しく、大粒だった。両目から堰を切ったように涙が溢れ、顎のラインを伝って白いワンピースの胸元にシミを作っていく。
「遥香……? どうしたの? また嬉しくなっちゃった?」
僕は心配になって、彼女の顔を覗き込んだ。
ビジョンからは、サビのメロディが切なく響いている。
遥香は溢れる涙を愛おしそうに指先で拭うと、僕に向かって、これ以上ないほど優しく微笑んだ。
「ううん、なんでもないの、渚くん。ただね……本当に私、いま世界で一番幸せだなと思って。幸せすぎて、なんだか少し怖くなっちゃったの」
「怖がらなくていいよ。僕はここにいるから」
僕がそう言って彼女の手を握り直した、その瞬間だった。
鼓膜を破らんばかりの、激しい急ブレーキの金属音が街に響き渡った。
見ると、交差点の赤信号を完全に無視した、一台の暴走車が、猛烈な速度で僕たちのいる歩道へと突っ込んでくるのが見えた。ヘッドライトの白い光が、津波のように僕たちの視界を覆い尽くす。
考える時間はなかった。
論理なんて、一瞬で消し飛んだ。
ただ、身体が、遥香を絶対に失いたくないという僕の感情だけが、勝手に動いていた。
「遥香――!」
僕は自分の身体を投げ出すようにして、遥香の身体を力任せに突き飛ばした。
彼女を安全な車道側へと押し出す。視界の端で、彼女の白いワンピースがふわりと宙に舞うのが見えた。
直後。
鈍い、肉と骨が鉄塊に押し潰されるような、凄まじい衝撃が僕の身体を襲った。
世界が激しく回転する。
自分の骨が砕ける音が、内側から生々しく聞こえた。
アスファルトに叩きつけられた瞬間、強烈な鉄の匂いと、生暖かい液体が、僕の喉の奥から溢れ出す。視界が、急速にモノクロへと変色していく。
身体の感覚が、急速にふやけて、境界線を失っていく。
痛い、はずなのに、なぜか妙に冷たくて、静かだった。
「渚くん! 渚くん――!」
遠くで、遥香が僕の名前を叫びながら、激しく泣き崩れる声が聞こえる。
あんなに大人しい彼女が、なりふり構わず僕の身体を揺さぶっている。彼女の手が、僕の血まみれの頬に触れた。その手のひらは、僕の消えゆく体温よりも、驚くほど熱を持っていた。
頭上のビジョンからは、まだ『タイヨウのうた』のサビが、壊れたレコードのように鳴り響いている。
サビのフレーズが、耳の奥にこびりついて離れない。
意識が暗転する直前、僕の脳裏に、なぜか遥香の声が呪文のようにリピートしていた。
――60万4800秒だよ。短いよね、すごく。
世界が完全に、静止した。




