第1話:二人の名前
第1話:二人の名前
シンクの底で、洗剤の泡が小さく弾ける音がする。
ぬるま湯に浸かった自分の指先は、すでに白くふやけ始めていた。
2006年、8月。
個人経営の古びたカフェのキッチンは、換気扇の回転が鈍く、常に湿った珈琲豆の匂いが停滞している。有線放送からは、耳にタコができるほど聴かされたオレンジレンジや大塚愛のヒット曲が、安っぽいスピーカーを経由して、泥のように空間へ流れ込んでいた。
世界はいつだって、僕が望まない速度で、僕のあずかり知らぬ場所で消費されていく。そんな斜に構えた視線を世界に向けてしまうのは、きっと僕が21歳という、何者でもないモラトリアムの真ん中にいるからだ。
「渚くん、これ。約束してたやつ」
カウンター越しに差し出されたのは、透明なプラスチックのケースだった。
中に収まっているのは、青いシェルに包まれた1枚のMD。レーベルには、丸っこい、どこか重心の低い文字で『スピッツ・セレクト』とだけ書かれている。
「ありがと、遥香さん。わざわざ持ってきてくれたんだ」
僕は皿を拭く手を止め、受け取ろうとして、彼女の指先に少しだけ触れた。
夏の水仕事で冷え切った僕の指とは対照的に、彼女の指先は驚くほど熱を持っていた。その小さな温度差に、心臓の奥が小さく跳ねる。
秋本遥香。僕と同じ大学に通う、21歳のウェイトレス。
彼女はいつも、僕が求めているものを、僕が口にする一歩手前で差し出してくる。
「ううん、ちょうど昨日、コンポで編集し直したから。渚くん、まだ聴いたことないアルバムがあるって言ってたでしょう?」
ふわりと、彼女の髪から夏のシャンプーの匂いがした。
彼女は僕を「理解している」のだろうか。いや、ただの偶然かもしれないけれど、彼女の差し出す優しさは、僕の乾いた輪郭をそっと撫でるような心地よさがあった。
バイトの休憩中、僕は店の裏口にある狭いコンクリートの段差に腰掛け、愛用のMDウォークマンに彼女から借りたディスクを滑り込ませた。
レンズが回転を始める、キュルキュルという微かな機械音が鼓膜に届く。
1曲目は『チェリー』だった。
ありふれた、あまりにもありふれた名曲。
けれど、イヤホンから鼓膜へと振動が伝わった瞬間、胸の奥がキュンと締め付けられるような錯覚を覚える。恋とか、愛とか、そういう大層な言葉は僕には似合わないと思っていた。それでも、この瑞々しいメロディを聴きながら思い浮かべるのは、さっきカウンター越しに微笑んだ彼女の顔だった。
「……ねえ、渚くん」
いつの間にか、遥香が僕の隣に立っていた。コンクリートの段差に、彼女の白いスカートがふわりと広がる。
彼女の細い指先が、僕の左耳からイヤホンを1つ、するりと奪い取った。自分の耳にそれを装着した彼女は、夏の強い陽射しを浴びて、眩しそうに目を細めた。
「『チェリー』、やっぱり良いよね。でもね、私が本当に聴いてほしかったのは、もっと後ろの方」
「後ろの方?」
「うん。私の名前の曲と、渚くんの名前の曲が入ってるの」
遥香は、ポケットから取り出したケータイを開いた。液晶画面のバックライトが、彼女の顎のラインを白く浮き上がらせる。
「スピッツにはね、『渚』って曲があるんだよ。知ってた?」
「名前くらいは」
「じゃあ、『遥か』は?」
「……知らないな。漢字が違うけど?」
「なんかイジワルな言い方。でも、読みは一緒でしょ?」
遥香は小さく笑った。その笑顔には、一切の濁りがない。あまりにも純粋で、だからこそ少しだけ、僕の胸に刺さる。
僕たちの名前が草野マサムネの描く箱庭の中に並んでいる。そんな偶然を、普通の男の子なら運命だと大喜びするのだろう。僕だって、本当は少しだけ浮き足立っている。
「今週末、ひたちなかでフェスがあるじゃない?」
遥香が、イヤホンを耳につけたまま、僕の顔を覗き込んできた。
彼女の瞳の中に、縮小された僕の顔が映り込んでいる。距離が、近い。彼女の吐息が届きそうな距離で、僕は小さく唾を飲み込んだ。
「スピッツ、出るんだよ。一緒に行かない? 2人で」
「……うん、行こう。遥香さんと行きたい」
不意に、近くの電柱の影で、1匹の蝉が勢いよく飛び立っていった。
8月の週末、国営ひたち海浜公園のロックフェス会場は、人間の排熱と熱気で満ちていた。
踏み荒らされた芝生の匂いが、太陽に焼かれて、妙に生々しい夏の臭気を放っている。周りの若者たちは、汗まみれのTシャツ姿で、大声で笑っていた。
誰も彼もが、この「一瞬の夏」という魔法に身を委ねている。
僕はといえば、首から下げたタオルで何度も額の汗を拭いながら、隣を歩く遥香の姿ばかりを気にしていた。
彼女は、物販で買ったバンドTシャツを着て、普段より少しテンションが高そうにステップを踏んでいる。その姿が、たまらなく愛おしい。
「渚くん、冷たいの買ってきたよ」
遥香が、結露でびしょ濡れになったスポーツドリンクのペットボトルを、僕の頬に押し当ててきた。
ひやりとした痛覚が皮膚を走り、僕は「つめたっ」と思わず声をあげる。
「あはは、ビックリした? はい、ポカリスエット」
「ありがとう。遥香さんは、こういう場所疲れない?」
「ううん、全然。むしろ、すごく嬉しい。だって、渚くんとこうして同じ音楽を聴きに来られたんだもん」
遥香は、ペットボトルを両手で包み込むように持ちながら、眩しそうにステージを見つめた。
その言葉は、まっすぐ僕の胸の真ん中に届いて、甘酸っぱい炭酸の泡のように弾けた。僕みたいな、いつも世界を斜めから見ている人間の隣に、どうしてこんなに真っ直ぐな子がいてくれるのだろう。
やがて、夕暮れがステージの裏側に沈み、紫色の夜の帳が降りる頃、お目当てのバンドがステージに現れた。
イントロのギターリフが鳴り響いた瞬間、地鳴りのような大歓声が沸き起こる。
スピッツのステージが始まった。
草野マサムネの声が、夏の夜空にまっすぐ吸い込まれていく。
その声は、どこまでも透明で、せつない。
「あ……」
気づけば、遥香が僕の手を握っていた。
ギュッと、少し強い力で。彼女の手のひらは、僕よりもずっと熱く、少し汗ばんでいた。指と指が絡み合い、恋人繋ぎになる。
鼓動が、ステージの重低音よりも激しく胸の内で暴れ始める。心臓の音が彼女に聞こえてしまうんじゃないかと、僕は気が気じゃなかった。
その時、演奏されたのは『渚』だった。
さざなみのようなイントロの音が、僕たちの足元を優しく包み込んでいく。
――柔らかい日々が、波のように押し寄せてくる。
僕は、自分の隣でステージを見つめる遥香の横顔を見た。
彼女の横顔があまりにも綺麗で、胸が苦しくなる。これが恋というやつなら、僕はもう、一生この夏から抜け出せなくてもいいとさえ思った。
けれど、ふと気づくと、彼女は歌っていなかった。ただ、唇を固く結び、何かに耐えるようにステージを凝視している。その瞳が、夜の照明を反射して潤んでいるように見えた。
胸が高鳴るのと同時に、僕は握り返す強さを少しだけ増した。この甘酸っぱくて、切ない時間が、ずっと続けばいいのに。
フェスの帰り道、各駅停車の車内は、祭りの終わりの気だるい沈黙に支配されていた。
吊り革が、電車の揺れに合わせて、規則正しくカタカタと音を立てる。遥香は僕の肩に頭を預けて、小さく寝息を立てていた。肩にかかる彼女の頭の重みが、狂おしいほど愛おしい。
最寄り駅を降りると、夜風は昼間の熱を完全に失い、どこか秋の気配さえ孕んでいた。
二人は、どちらからともなく、街灯の少ない静かな住宅街の道をゆっくりと歩いていた。楽しい時間の終わりを、少しでも引き延ばすように。
「楽しかったね、渚くん」
遥香が、僕の一歩前を歩きながら振り返る。
彼女の肩にかかったトートバッグの中から、あのMDケースが、カチカチと乾いた音を立てていた。
「うん。本当に楽しかった。最高の夏休みだよ」
「私の名前の曲、どうだった?」
「『遥か』? ……すごく、遠いところへ連れていかれそうな、でも、すごく優しい曲だった」
「そう。遠いところ」
遥香は足を止め、僕の方を向いた。
街灯のオレンジ色の光が、彼女の髪の輪郭を淡く縁取っている。
「私ね、ときどき分からなくなるの。今、私がこうして渚くんと歩いていること。スピッツの曲を聴いて、手を繋いで、夏が終わろうとしてること。これが全部、夢だったらどうしようって」
彼女の言葉は、夜の空気に溶けるようにして、僕の耳に届いた。
恋が楽しすぎて、逆に不安になってしまうのだろうか。そんな彼女の繊細さが、たまらなく愛おしかった。
「夢じゃないよ。ほら、手、繋いでるでしょう?」
僕は、彼女の細い手をもう一度そっと握りしめた。
けれど、遥香は僕の手を見つめたまま、動かなかった。
彼女の瞳から、大粒の涙が、一筋、静かに零れ落ちた。
声をあげるわけでもなく、顔を歪めるわけでもない。ただ、あまりにも幸せそうに微笑みながら、彼女の目から大粒の涙が零れ続けている。
「遥香さん? どうしたの?」
僕は少しおどけて、彼女の顔を覗き込もうとした。
けれど、彼女の瞳の奥にある、吸い込まれそうなほどの深い光が、僕の言葉を止めた。
「ううん、なんでもないの。嬉しかっただけ」
遥香は、溢れる涙を拭おうともせず、鈴の鳴るような声で笑った。
「ただね、渚くん。一週間って、秒数に直すと何秒になるか、知ってる?」
「え……? 急にどうしたの?」
「60万4800秒だよ。ねえ、この夏の思い出は、何秒くらい残るのかな」
彼女のセリフは、どこか不思議で、少しだけ切ないズレを含んでいた。けれど、それすらも、この最高の夜のロマンチックな余韻のように、僕の胸に甘く溶けていく。
遠くの踏切が、カンカンカンと、どこかノスタルジックな音を響かせ始める。
「ずっと残るよ。僕がずっと、覚えてるから」
僕は彼女の涙を親指でそっと拭った。
街灯のオレンジ色の光に照らされた彼女の瞳は、まるで夜空の星のように、ただ純粋に、静かに輝いていた。この恋が、これからずっと続いていくのだと、僕は信じて疑わなかった。




