第10話:ふたりの想い
第10話:ふたりの想い
目が覚めると、視界の端でプラスチックのケースが鈍く光っていた。
病室の天井は、昼も夜も同じ白さを保っている。
規則正しく並んだ吸音穴を数えるのにも飽きた頃、右側のパイプ椅子から微かな衣擦れの音が聞こえた。
遥香は、膝の上にトートバッグを抱えたまま眠っていた。
首が少し斜めに傾き、前髪が睫毛にかかっている。彼女の小さな呼吸に合わせて、コートのエリがわずかに上下していた。
サイドテーブルの上には、透明なプラスチックのケースが置かれている。中には、十数枚のMDが隙間なく並んでいる。
ケースの端から覗くカラーレーベルには、見慣れた青いマジックの文字があった。
『渚くんへ』
『夜に聴く用』
『眠れない時』
どれも、少し右上がりの掠れた手書きの文字だった。
僕は動かない左手の指先を、布団の縁に押し付けた。
ざらついた綿の感触が、皮膚を通じて脳に届く。
夢の中で、あのサークル棟の裏手や各駅停車の座席で僕の耳に流れ込んできた音楽の残響が、この狭いプラスチックの円盤から染み出していたのだと、具体的な質量を持って理解し始める。
すべてが僕の脳内だけで完結した、都合の良い夢ではなかったのだ。
数日後から、退院に向けたリハビリが始まった。
リハビリ室の床からは独特の消毒液の匂いがして鼻を突く。
平行棒を両手で掴み、一歩を踏み出す。
たったそれだけで、膝の裏側の筋肉が細かく震え、額にじっとりとした汗が浮かぶ。
食べることも、窓の外の雲の動きを見ることも、すべての動作に妙な重量が伴っていた。歩くだけで、骨の随まで疲労が染み渡る。
遥香は、毎日同じ時間にやってきた。
コンビニのプリン、折り目のついた音楽雑誌、細いストローの刺さったパックの緑茶。
彼女が持ってくるものは、どれも白いビニール袋の中でカサカサと乾いた音を立てた。
「お疲れ様」
遥香はパイプ椅子に座り、雑誌のページをめくる。
当たり前みたいに隣にいる。
その姿を見るたびに、僕はデニムジャケットを着ていた夢の中の彼女と、今ここにいる少し疲れた顔をした彼女の境界線が、水に溶ける絵の具のように滲んでいくのを感じていた。
昼下がりの病室。
窓からは、冬の希薄な光が差し込んでいた。
遥香がパックのお茶を飲み干し、ストローがズズッと空気を吸う音を立てた。
「そういえばね」
彼女は雑誌から目を離さずに言った。
「渚くん、この前、寝ながら少し笑ってた日あったよ」
平行棒の冷たい感触を思い出していた僕の思考が、不意に止まる。
「……笑ってた?」
「うん。すごく穏やかな顔をしてた。そのあと、寝言で『そこ、海の匂いする』って言ってたよ」
胸の奥の心拍が、一瞬だけ不規則に跳ねる。
それは、夢の中で僕たちが錆びついた各駅停車に乗って、窓の向こうの水平線を見ていた時の記憶だった。あの時、確かに僕は彼女に向かって同じ言葉を口にしていた。
「海の、匂い」
「そう。なんの夢を見てたの?」
遥香は雑誌をめくり、新しいページに視線を落とした。
彼女の横顔には、何の意図も含まれていないように見えた。ただの日常の雑談として、それを消化している。
けれど、僕の皮膚には冷たい粟が立っていた。
あの夢は、僕が孤独に作り出した避難所ではなかった。彼女がこの部屋で、僕の耳元で話し続けていた言葉の破片が、僕の脳内で景色となって結実していたのだ。
夢が、僕だけのものじゃない。その事実が、静かに背中に張り付いた。
夜、消灯時間の三十分前。
病室の照明が落とされ、ナースステーションの明かりだけが廊下から細い帯のように差し込んでいた。
遥香は帰る支度をせず、サイドテーブルからポータブルMDプレイヤーを取り出した。
「これ、聴いてよ」
彼女はそう言って、細いイヤホンの片側を僕の右耳に差し込んだ。
カチリ、とプラスチックのボタンを押す音が響く。
流れてきたのは、Every Little Thingの『ささやかな祈り』だった。
安いイヤホン特有の、高音がシャリシャリと割れる音が鼓膜を震わせる。有線放送か何かを録音したような、微かなホワイトノイズが背景に混ざっていた。
僕は、天井の影を見つめたまま呟いた。
遥香は、僕のベッドの横に立ち、窓の外の遠い街灯を見つめていた。
彼女は小さく笑った。その声は、割れたイヤホンの音よりも静かだった。
そのあと、二人の間に長い沈黙が降りてきた。
点滴の機械が規則正しく刻む、プツ、プツという微かな駆動音だけが、部屋の空気を一定の速度で削っていく。
「遥香」
僕は、イヤホンのコードに触れないように、声を絞り出した。
「あのさ…一旦、本当に終わりにしよう」
これ以上、彼女のまともな生活をこの白い部屋で削るわけにはいかない。
遥香は、驚いた様子を見せなかった。
ただ、手元にあった緑茶のペットボトルのラベルを、爪先でカリカリと剥がし始めた。
ビニールが擦れる乾いた音が、静かな部屋に不自然に響く。
「それ、私に申し訳ないから言ってるんだよね」
声のトーンは変わらない。平坦で、穏やかで、だからこそ拒絶の気配が濃い。
「私は別れてもいいよ。渚くんがどうしてもそうしたいならそれでいいよ」
遥香は爪先を止め、剥がれかけのラベルを見つめた。
「でも、一回終わったら、私はもう戻らないよ。もう二度と、渚くんの前に現れることもない」
空調の生ぬるい風が、窓辺の白いカーテンを数センチだけ揺らした。
「綺麗な理由で逃げないでよ。そんなの優しさじゃない。汚い感情でも何でもいいから、君の本当の言葉を聞かせて」
僕は唇を噛んだ。感覚が鈍くてよく分からない。
本当は、言いたかった。
僕のせいで君の大事な21歳の時間を潰したくない。早く僕のことなんて忘れて、普通の大学生らしい、きらきらした日常に戻って、誰かと幸せになってほしい。
それが、僕が用意した「正しい」はずの台詞だった。
それなのに言葉が出てこない。
「渚くん、一瞬だけ、意識が戻りかけたときがあったんだよ」
遥香の声が、僕の思考を遮った。
「私の手を握って、耳元で言ったんだよ」
心臓が、跳ねるように鼓動の間隔を狭めた。
「――ずっと好きでいて。ずっと僕のことを忘れないで、って」
脳裏に、あの目覚めの記憶が蘇る。あの醜悪な実感を伴った言葉。あれは夢の中の独白ではなかった。現実の彼女の耳元で、僕が吐き出した本音だったのだ。
「私、あれ嬉しかったよ」
彼女は僕の顔を真っ直ぐに見つめた。
「酷いなって思いながら、すごく安心したの」
廊下から、面会終了を告げるチャイムの音が聞こえてきた。
規則正しい電子音が4回、乾燥した空気を叩く。
「時間だね」
遥香はトートバッグを肩にかけ、コートのボタンを一つだけ留めた。
病室のドアを開け、廊下の白い光の中に半分だけ身体を沈めた状態で、彼女は足を止めた。
「ねえ」
振り返った彼女の瞳には、やはり彼女自身の欲望が見当たらなかった。
「夢の中の私と、今の私、どっちが好き?」
僕は、答えることができなかった。喉の奥が固く閉ざされ、息を吸うことしかできない。
遥香は、少しだけ口元を緩めた。それは微笑みというよりは、ただの表情の習慣のように見えた。
「じゃあ、まだ間に合うね」
パタン、とドアが閉まった。
プラスチックのラッチが静かに噛み合う音がして、部屋は再び薄暗い静寂に戻った。
その直後、どこか遠くの病室で、ナースコールのアラームが鳴り響いた。
ピピピ、というその無機質な電子音が、一瞬だけ、さっきまで耳元で鳴っていた歌のイントロのように聞こえた。




