第11話:あいのうた
第11話:あいのうた
まばゆい白のライティングが、視界の端を鋭く刺した。
タキシードの袖口から覗く、銀色のカフスボタンを整える指先が見える。
おめでとう、という声が何度も頭上を飛び交い、拍手の渦がチャペルの中に広がっていく。新郎の引き締まった背中と、純白のドレスの裾が、ゆっくりとバージンロードを進んでいった。
僕は、自分のネクタイの結び目を少しだけ緩めようとして、指を止めた。
手元の円卓には、小さな自立式のカードが置かれている。
『小室家・亀田家 披露宴座席表』
僕の席の欄には、ただ『寺田渚 様』とだけ印刷されていた。
ウエディングケーキにナイフが入る瞬間、フラッシュの光が一度に弾けた。
乾杯の発声から30分が過ぎ、円卓の上に配られたビシソワーズはすっかりぬるくなっている。スプーンが皿の縁に当たる、カチンという硬い音が周囲の笑い声に混ざった。
「お前、今どこの部署なんだっけ」
向かいの席に座るサークルの同期が、ビール瓶を片手に訊いてきた。
彼のワイシャツの襟元には、いつの間にか醤油の小さな染みがついている。
「営業だよ」
「へえ、お前も大変そうだな。俺なんか毎日終電だよ」
彼は自分のグラスにビールを注ぎ、一気に飲み干した。
誰も、あの話はしない。
三年前の夏、僕が交差点で車に跳ねられ、一週間もの間、意識を失って病室のベッドに横たわっていたこと。遥香がその横で、毎日MDプレイヤーのイヤホンを僕の耳に差し込んでいたこと。
あの劇烈な「168時間」は、この賑やかな披露宴会場のどこにも存在していない。まるで、最初からなかったことのように、世界は退屈で、正しい速度で回っている。
僕は上着の胸ポケットに手を伸ばした。
指先が、細長いプラスチックの感触に触れる。
ソニーのスティック型MP3プレイヤー。
イヤホンのコードは、ポケットの中で固く絡まっていた。
小さな液晶画面には、ノイズ混じりの文字で『楓』と表示されている。
再生ボタンは押さなかった。
ただ、その冷たい外装を指の腹でなぞるだけで、手のひらにじっとりとした汗がにじんだ。
二次会が終わり、駅前のロータリーに出ると、冷たい夜気が一気に衣服の隙間に潜り込んできた。
2009年、12月。
街頭のイルミネーションは青色LEDに変わり、鋭い光がアスファルトを寒々しく照らしている。
「おい、渚」
振り返ると、サークルの先輩が自販機の前に立っていた。
ネクタイをポケットに突っ込み、少し赤い顔をして、缶コーヒーを二つ買っている。
一本が、僕の胸元に放り投げられた。
受け止めると、アルミ缶の熱が容赦なく手のひらを焼く。
「ありがとうございます」
「お前さ」
先輩は缶を開け、白い息を吐きながら言った。
ゴク、と喉を鳴らしてコーヒーを飲む。
「遥香ちゃんとは、結局なんで別れたんだ?」
ロータリーを、タバコの煙が頼りなく流れていく。
遠くで、タクシーのドアがバタンと閉まる音が響いた。
「なんででしょうね…」
僕は缶コーヒーのプルタブを指先でいじった。爪の間に、金属の冷たい感触が挟まる。
「ちゃんと好きだったんですけどね」
先輩は、それ以上何も訊かなかった。
「そうか」とだけ言って、ぬるくなったコーヒーを飲み干し、空き缶を灰皿の横のゴミ箱に放り込んだ。カコン、と軽い音がして、それは他の缶の中に沈んでいった。
あの事故の後、僕は奇跡的に退院した。
体調が戻り、大学に戻り、就職活動を始め、普通の日常が僕たちの間に戻ってきた。
けれど、何かが決定的に狂っていた。
生死の境界線を共有してしまったあの「168時間」の濃度が、高すぎたのだ。
毎日の講義、サークルの飲み会、就職内定の報告、将来の話。
そうした「普通の大学生らしい生活」のすべてが、あの白い病室で流れていた音楽の切実さに比べると、あまりにも薄く、退屈なノイズにしか思えなくなっていた。
遥香の優しさは、僕を救うためなら自分の人生をすべて投げ捨てるような、ある種の重みを孕んでいた。そして僕の本音「ずっと僕のことを忘れないで」という呪いのような言葉。
お互いの内面の最も深い部分に触れてしまった僕たちは、その後に続く、就職や生活という「普通の現実」の重みに、ゆっくりと窒息させられていった。
ドラマのような鮮烈な経験は、僕たちの前に立ちはだかる障壁そのものになっていた。
劇的な障害は何ひとつなかった。
ただ、普通に暮らしていくことが、僕たちにとっては一番の困難だった。
夜の一時を過ぎた頃、木造のアパートに帰宅した。
狭い玄関で靴を脱ぎ、スーツの上着を床に放り出す。ハンガーに掛ける気力も沸かない。
部屋の隅に置かれた小さな冷蔵庫が、ブー、という低いモーター音を立てて微かに震えている。
ネクタイを外し、ベッドの端に腰を下ろした。
暖房を入れても、部屋が暖まるまでには時間がかかる。吐き出す息が、部屋の中でもうっすらと白い。
僕は、テレビ台の下にある古い引き出しを開けた。
奥のほう、使わなくなった書類の束の隙間に、小さなプラスチックのケースが紛れていた。
2006年の冬。
あの病室のサイドテーブルに並んでいた、何枚ものMD。
その中の一枚だけを、僕は今も手元に残している。
カラーレーベルには、色あせた青いマジックで、ただ日付だけが書かれていた。
『2008.12.24』
別れる直前、最後に彼女が部屋を訪れた日の日付だ。
僕は、クローゼットの奥から、ホコリをかぶったポータブルMDプレイヤーを引っ張り出してきた。アダプターを繋げディスクを挿入する。
ガシャ、とレンズが動く機械音がして、液晶に小さな文字が浮かんだ。
イヤホンを両耳に差し込み、再生ボタンを押す。
流れてきたのは、音楽ではなかった。
微かな衣擦れの音。
遠くで鳴る、車のクラクション。
蛇口から滴る、水の音。
そして、小さく息を吸い込む気配。
『――もし、渚くんが先に忘れても』
遥香の声だった。
カセットテープのように少しこもった、けれど聞き間違うはずのない、彼女の声。
『私はたぶん、ずっと思い出すと思うから』
そこで音は途切れた。
ホワイトノイズだけが、ザー、と鼓膜の奥で砂嵐のように鳴り続けている。
彼女は、僕が眠っている間に、この言葉を録音していたのだろう。あるいは、僕と別れることを最初から知っていて、この円盤に自分の破片を閉じ切ったのかもしれない。
僕は、イヤホンを耳から外した。
コードが静かに床に落ちる。部屋の空気は、相変わらず冷え切っていた。
胸のポケットからケータイを取り出す。
シャープの折りたたみ式のガラケー。液晶のバックライトが、暗い部屋の中で青白く僕の顔を照らした。
アドレス帳を開き、『あ』の欄をスクロールする。
『秋元遥香』
その二文字を見つめたまま、僕の親指は、発信ボタンの上で固定されたように動かなかった。
窓の外を見ると、街灯の光の中に、白いものが静かに混ざり始めていた。
2009年の、最後の雪だった。
あの病室で流れていたGLAYの『夏音』のメロディが、なぜか今、頭の中で不意に再生される。
夏が終わる瞬間の、あの息が詰まるような熱気が、この冷たい北風の中に一瞬だけ混ざったような気がした。
けれど、画面のバックライトが数秒後にぷつりと消えると、部屋には再び、冷蔵庫の低いモーター音だけが残された。




