第12話:168時間のシンフォニー
第12話:168時間のシンフォニー
スマートフォンの液晶画面は、指先で軽く触れるだけで滑らかにスクロールしていく。
ボタンを押すカチカチという抵抗はどこにもない。指の腹がガラスの表面を滑るたび、画面の中の文字が音もなく上下した。
ハイブリッド車の静かなエアコンのファン音が、閉め切った車内に低く響いている。
カーステレオの液晶に、Bluetoothで接続されたスマートフォンの再生リストが表示される。
『遥か / スピッツ』
アコースティックギターの静かで儚いメロディが、ドアのスピーカーから流れ出してきた。
僕はハンドルの革の感触を確かめるように、両手で固く握りしめた。
親指の付け根が、少しだけ白くなる。
画面を開き、新しくプレイリストを作り始める。
検索窓に、記憶の底から浮かんできた文字列を一つずつ打ち込んでいく。
『チェリー』
『タイヨウのうた』
『空も飛べるはず』
『愛のために』
『You』
『僕の背中には羽根がある』
『陽のあたる坂道』
『feel my soul』
『almost in love』
『ささやかな祈り』
『夏音』
画面をタップするたび、2006年という数字が、実感を伴わないまま脳裏をかすめていった。
あの頃のケータイの、押しにくいプラスチックのキーの感触を思い出そうとしたが、指先はガラスの冷たさを感知するだけだった。
指を動かすのをやめ、僕は車のドアを開けた。
ショッピングモールの立体駐車場は、週末の買い物客の車で埋まっていた。
コンクリートに引かれた線の間を、何台ものミニバンがゆっくりと通り過ぎていく。
自動ドアをくぐると、一気に生ぬるい空調の風と、何重にも重なった話し声が押し寄せてきた。
家族連れの押すカートの車輪が、磨かれた床の上でキュルキュルと小さな音を立ててきしむ。子供の靴が歩くたびにピッ、ピッ、と鳴っていた。
吹き抜けの通路を、僕はただ歩いた。
アクリルの柵から下を見下ろすと、フードコートの座席が隙間なく埋まっているのが見える。
プラスチックのトレイがテーブルに当たる音、呼び出しベルの電子音、誰かの軽い笑い声。
すべてが正しく、健全な生活の音だった。
二階の衣料品店の前を通り過ぎようとしたとき、視界の端に、ある動きが引っかかった。
少し離れた通路の真ん中で、子供用の小さなリュックサックを拾い上げている女性がいた。
彼女はしゃがみ込み、小さな男の子の服の皺を丁寧に手で伸ばしている。
横には、買い物袋を両手に下げた男性が立っていた。男性は何かを話しかけ、彼女は少しだけ首を傾げて笑った。
僕は、足を止めた。
履き慣れたスニーカーの底が、床に張り付いたように動かなくなる。
彼女が顔を上げ、こちらを見た。
距離にして、十メートルほどだった。
モールの強い蛍光灯の光が、彼女の顔をまっすぐに照らしている。
少しだけ色あせたグレーのコート。後ろで一本に結ばれた髪。
遥香だった。
彼女の瞳が、僕を捉えた。
その瞬間、周囲のすべての雑音が、水の中に飛び込んだときのように遠ざかった。
カートの軋む音も、子供の靴の音も、スピーカーから流れるBGMも、すべてが薄い膜の向こう側へと消えていく。
頭の中で、いくつかの光景が急速に重なり合った。
デニムジャケットを着てサークル棟の裏に立っていた彼女。
薄暗い病室で、やつれた顔をしてパイプ椅子に座っていた彼女。
MDプレイヤーのイヤホンを僕の耳に差し込みながら、静かに笑っていた彼女。
そして今、見知らぬ男性の隣で、子供の手を引いている彼女。
現実の僕たちと、夢の中の僕たち。
その四つの影が、ひとつの場所に猛烈な速度で引き絞られていき、眩暈のような感覚がした。
鼓膜の奥で、心電図の規則正しい電子音が、プツ、プツ、と鳴り始める。
遥香の唇が、わずかに動いた。
何かを言おうとしたのか、それとも、ただ息を吸い込んだだけなのか。
彼女の目の下にあるはずの薄い影を探そうとしたが、モールの白い光がすべてを均一に塗りつぶしていて、何も見えなかった。
なんだか、すべてが長い夢だったような気がした。
2009年のあの雪の夜も、就職してからの日々も、41歳になった今の僕も。
あの交差点で車にはねられた瞬間から、僕は一度も、本当の現実に戻っていないのではないか。
この20年近い人生のすべてが、あの白いベッドの上で、脳が168時間の退屈を埋めるために見せている、ただの長い残像だったのではないか。
そう思った瞬間、視界の明度が急激に落ちた。
モールの天井が、白から灰色へ、そして深い黒へと沈んでいく。
最後に聞こえたのは、スピッツの旋律か、それとも、平坦に伸びていく無機質な機械の音だったか。
目の前が、完全に暗くなった。
―――
強い、アルコールの匂いがした。
プラスチックの擦れる乾いた音が、静かな空間に響いている。
「渚くん」
声を出しながら、私は自分の指先が小刻みに震えているのに気づいた。
両手で包み込んでいる彼の左手は、驚くほど冷たい。ざらついた綿のシーツの上に置かれたその手は、一週間前と何も変わらない位置に固定されたままだった。
窓の外からは、夏の名残を残し、どこか遠くから届くような、柔らかく澄んだ光が、ゆっくりと病室の床に差し込み始めている。
ナースステーションの方から、看護師の慌ただしい足音が近づいては遠ざかっていった。
ベッドの横に置いたポータブルMDプレイヤーからは、イヤホンの隙間を通じて、かすかな音が漏れている。
「ほんと、渚くんはズルいよ」
私は、シーツの皺を見つめたまま呟いた。
喉の奥が固く閉じて、声がかすれた音になる。
「寂しそうに忘れろって顔をしてたくせに、忘れるなって言うんだもん」
一瞬だけ意識が戻りかけたとき、彼が私の手を握って囁いた言葉。
「ずっと好きでいて。ずっと僕のことを忘れないで」
それは、私のこれからの時間をすべて縛りつけるための、冷たい言葉だった。
彼が私のために用意しようとしていた「正しい」別れの台詞なんて、どうでもよかった。あの醜い本音だけが、この部屋の空気の中に、確かな質量を持って残り続けている。
「私は、あの言葉を信じるって決めたから」
私は、彼の額にそっと触れた。
皮膚の奥の、微かな体温を感じようとして、指先を押し付ける。
心電図の機械が、ピッ、ピッ、ピッ、と規則正しい音を刻み続けている。
乾燥した空気の中に、その音だけが一定の速度で落ちていく。
「ねえ、渚くん」
私は、彼の動かない左手を、さらに強く握りしめた。
私のエゴでも、何でもいい。
私の存在を呪いと呼ぶなら、私は喜んでその形に合わせて、自分の形を変えるだけだった。
そのときだった。
私の手のひらの中で、彼の左手の指先が、ほんの数ミリだけ動いた。
シーツのざらついた繊維を、爪先でわずかに擦るような、小さな微動。
私の呼吸が乱れる。
心電図の音が、一瞬だけ不規則に跳ねる。
それは、彼がこの歪な現実を引き受け、私のいる世界へと戻ろうとしている合図なのか。
それとも、これから始まる残酷な日常――劇烈な体験のせいで普通の生活を壊され、数年後に別れていく未来へと収束していくための、引き返せない時間の始まりなのか。
あるいは、心電図の波形が完全に平坦になる直前の、ただの筋肉の最後の反射にすぎないのか。
窓の外の朝焼けが、白いシーツを淡いオレンジ色に染めていく。
私は何も訊かないまま、ただ彼の顔を見つめていた。
プレイヤーから漏れるかすかな旋律が、朝の静寂の中に、小さく、小さく溶けて消えていった。




