72話 欠陥品と呼ばれた者
液体を飲んだ瞬間、男がまとう気配が変わった。
筋肉がぶくりと膨んで、血管が浮き出て、皮膚の下で魔力が暴れるように脈打つ。
一回り、体が大きくなり……
筋肉の鎧をまとい……
怪人と呼ばれるような、そんな存在に変化した。
「むっ……ドーピングかのう?」
「くくく……これだ、この力ダ! これさえあれば、俺は、誰にも負けねエ!」
男は喉の奥で獣じみた笑いを漏らした。
目がぎらついていて、明らかに普通の状態ではない。
強化の類のドーピングであることに間違いないが……
明らかに異様な。
あんなものは見たことがない。
「リルよ、あれはなんじゃ?」
「し、知らないです……! ぼ、僕も……初めて見ます」
扱いは雑ではあったが、しかし、レイスと呼ばれたリルですら知らない奥の手、ということか。
ただの暗殺者集団が、あのような薬を独自に開発した?
そこまでの技術があるのなら、もっと別のことをした方が稼げると思うが……
あるいは。
どこか別の筋が絡んでいる?
疑念が頭をよぎるが……
「よそ見は厳禁だゼ!」
「そのとおりじゃな!」
男の拳が、今度は、さきほどより二段も三段も速くなった。
空気が破裂する音さえする。
儂は身を沈めてかわし、返す刃を胴へ走らせる。
だが、さきほどまでなら斬れていたはずなのに、今は、硬くなった筋肉へ浅く食い込むだけで止まってしまう。
「ちっ、面倒な」
「そんなもの効かねえヨ!」
続けざまに連打が来る。
右、左、膝、肘。
拳だけではなくて、鍛え上げた体そのものが凶器になっていた。
しかも、きちんとした技術がある。
流れるような連携は見事の一言で、確かに大したものだ、と敵ながら感心させられてしまう。
儂は同じように捌いていくが、手数とスピードが増しているせいで追い込まれつつあった。
。
「ははっ! どうした、戦乙女! さっきまでの余裕はどこ行っタ!?」
「ひ、姫様!?」
リルも援護に入ろうとするが、男の気配が荒れすぎていて、隙へ滑り込む余地が狭い。
無理に近づけば巻き込まれるだろう。
それでいい。
焦ってミスをするよりもずっといい。
「おらおら、さらにいくゾ!」
「ちっ」
連打。
さらに連打が来て……
暴走する馬車のごとく、雨あられと攻撃が降り注いでくる。
それらを冷静に捌きつつ、相手を観察する。
肥大化した筋肉。
増幅された魔力の量。
思考回路の拡大化。
硬質化した体の耐久性。
代償の有無……などなど。
どれだけの変化が起きて、どれだけの影響を与えているのか、しっかりと確認した。
……なので、もう十分だ。
迫る大男を蹴り飛ばして、距離を取る。
「ふむ……この程度か」
「なんだト?」
「いやなに。ドーピングが気になったものでのう。その薬がどれほどの脅威になるか、少し試していただけじゃよ」
「試した、だト……? この俺を、そのような……」
「確かに脅威ではあるが……しかし、まだまだ物足りぬのう」
地面を砕く勢いで蹴る。
「なっ!?」
大男の驚きの声は後ろに消えた。
加速。
加速。
加速。
大男の視界から消えるように動いて。
そのまま背後に回り込んで……
「でぇいっ!!!」
「ぐぁっ!?」
痛烈な一撃を背へ叩き込む。
大男の巨体が前へつんのめる。
「ば、ばかな……!」
「す、すごいです!」
リルが目を輝かせた。
「こんな、ことでェ!!!」
大男はよろめきつつも振り向いて、再び拳を繰り出してきた。
ただ、もう最初の勢いはない。
速度も力も底は見えたし……
なんなら、どんどん威力が落ちてきている。
体力が尽きたか。
あるいは、ドーピングには時間制限があったのか。
「終わりにするぞ」
儂は攻撃を捌いて、懐へ入る。
腹へ肘を打ち込み、膝を崩して、最後に喉元へ剣をぴたりと突きつけた。
「降参するのじゃ」
「ぐっ……!」
大男は悔しそうに呻く。
ここから逆転の手はないと自覚しているのだろう。
「ばかいうな……降参なんてできるものカ」
「こ、降参してください!」
リルが、思わずといった調子で叫んだ。
「ぼ、僕は、その……やっぱり、色々な恩があって、あなたがいなかったら僕はとっくに死んでいたと思うから……だから、だから……あなたが死ぬのは……」
リルは声を震わせる。
「嫌です」
甘い言葉だ。
甘いけど……でも、嘘ではない。
この大男は、リルを欠陥品と呼んで、見捨てて、道具としか見ていない。
だが同時に、孤児だったリルを拾い、育て、暗殺者として生かしてきたのもまた、この組織であり、この男なのだろう。
リル自身も、そのことを理解している。
都合のいい道具としか見られていなかったことも。
優しさではなく、使い勝手の問題で捨てられなかったことも。
それでもなお、完全には切り捨てられないのだろう。
これはもう理屈ではなくて心の問題だ。
そして、そんな心を持つリルを、儂は責める気になれなかった。
「ひ、姫様、僕……」
「よい。リルがそうしたいのなら、そうしよう……それでこそ、リルなのじゃからな」
人を殺せないことも、捨てきれない情も、全部ひっくるめてこの子なのだ。
なら、儂はそれを肯定する。
受け止めてみせる。
大男は、ぽかんとしていた。
自分へ助命を乞う声が向けられると思わなかったのだろう。
それも、自分が欠陥品と切り捨てた相手から。
やがて、その口元がふっと歪む。
「欠陥品に心配されるとは……俺も落ちたナ」
「降参するかのう?」
儂は問い直す。
大男は、そこで初めて静かに笑った。
「まさか」
次の瞬間、男の歯が、がちりと鳴る。
「こやつ……!」
「ぐっ……がはっ!?」
瞬間、大男の口から血があふれた。
……おそらく、こういう時のために、口の中に仕込んでおいた毒を噛み砕いたのだろう。
「あっ……あぁ!?」
「おい!」
リルが駆け寄ろうとしたが、大男は片手でそれを制した。
目はもう濁り始めていた。
それでも最後の力を振り絞るように、大男はリルを見る。
「リル……」
「は、はい……」
「お前は、俺みたいになるなヨ……」
それだけ言って、大男の体から力が抜けた。
静かに崩れ落ちる。
「……終わったな」
「……はい」
リルは、泣くかと思ったけれど、でも泣かなかった。
ただ、目を潤ませたまま、その場へ膝をつく。
そして、小さく頭を下げた。
「……ありがとうございました」
それは、別れの言葉だったのだろう。
都合よく使われていた。
欠陥品と呼ばれていた。
それでも、拾われ、生かされていた過去に対する最後の礼。
「……」
儂はなにも言わず、ただ、そっとリルの肩へ手を置いた。
それだけで、今は十分だろうと思った。




