64話 置いていかれた者
夢を見ていた。
すぐに夢だとわかる光景だった。
現実にしては明るすぎて、あまりにも温かくて……でも、少し触れれば壊れてしまいそうなほど繊細な色をしていたからだ。
草原が広がる。
風が吹いて、草が揺れて、空は高くて青い。
遠くで鳥が鳴いている。
その下で誰かが笑っていた。
「……ぁ……」
誰かを見て、リルは……僕は小さく呟いた。
なにもしないで、動けなくて、ただ見るだけ。
「ほら、こっちだよ!」
前を走っているのは友達だった。
顔はうまく思い出せない。
男の子だったかもしれないし、女の子だったかもしれない。
けれど、笑い声だけはよく知っていた。
無邪気で、遠慮がなくて、なんの疑いもなくこちらを呼んでくれる声だった。
「待って……!」
僕はそこで我に返り、慌てて走った。
必死で足を動かして追いかける。
でも、距離は縮まらない。
むしろ、少しずつ遠ざかっていく。
「ま、待ってよ……!?」
慌てて声をかけるけど、それは届かない。
友達は振り返りもしないで、どこかへ向かって歩いていく。
明るい方へ。
温かい方へ。
……僕だけを置いて。
向こうは歩いていて、こちら走っている。
それなのに追いつくことができない。
足がすぐに重くなってきた。
喉がひりついて、呼吸が苦しくなる。
それでも追いかけるのをやめたら、本当に全部が終わってしまう気がして、僕は転びそうになりながら走り続けた。
でも……
追いつけない。
どうしても届かない。
やがて友達の背が光の中へ溶けていく。
みんな消えて……
僕だけが、その場へ取り残される。
風が吹いた。
笑い声が消えた。
空の色が薄れていく。
もう誰もいない。
誰も……
――――――――――
「っ!?」
そこで目が覚めた。
「……僕は……」
天井が見える。
アリエルの私室だ。
僕は、その隅に設けられた簡易の寝床で寝ていた。
ここ数日、僕が身を寄せている場所だった。
胸のあたりが少し痛い。
夢の余韻がまだ喉へ残っているようだった。
手を握ると、指先がとても冷たく感じた。
「また、あの夢……」
みんなに会えるのは嬉しい。
でも、いつも最後は置いていかれる。
僕だけが遅れて、僕だけが取り残されて、僕だけが向こう側へ行けない。
「……」
布団を握りしめた、その時だった。
扉の向こうで、聞き慣れた足音がした。
ほどなくして扉が開く。
「戻ったのじゃ」
姫様だった。
陽を受けた金髪がふわりと揺れ、今日もまた、どう考えても幼い体には不釣り合いな落ち着きを纏っている。
服の裾には軽く土汚れがついていて、腰の剣にはつい先ほどまで使っていたらしい気配が残っていた。
任務帰りなのだろう。
それだけで部屋の空気が少し変わる。
この人が入ってくると、不思議と場所が『安全なところ」になるのだ。
「元気にしておったか?」
「あ、はい……」
僕は慌てて起き上がった。
「えと、姫様は……?」
「今日は盗賊の討伐じゃな」
アリエルは、やれやれと肩を回した。
「あやつら、いくら斬ってもいくらでも湧いてくる。虫みたいじゃ」
その物言いは乱暴だけど、でも、ぜんぜん嫌な感じがしない。
本当にそう思ったからそう言った、というだけの率直さがあった。
僕は、その言葉の後ろで、少しだけ考え込んでしまう。
盗賊を斬る。
人を殺す。
姫様は、それを当然のように口にする。
でも、この人は血に飢えた怪物でも、ただの残酷な人でもない。
むしろ、知れば知るほど真逆だと思わされる。
なのに、人を斬ることを躊躇わない。
そこが、僕にはどうしても不思議だった。
「どうしたのじゃ?」
気づけば、姫様がこちらを見ていた。
エメラルドの瞳がまっすぐ向けられる。
ごまかせないな、と思った。
「姫様は……」
少し迷ってから、僕は、思い切って問いかけてみる。
「人を殺すことを……どう思いますか?」
「ふむ?」
僕の問いを受けて、姫様は真剣に考えた。
椅子へ腰を下ろし、膝の上で手を組み、しばらく静かに考えた。
その時間が妙に長く感じられて、ちょっと居心地が悪い。
「悪じゃな」
やがて、姫様はそう言った。
「そ、それは……!?」
僕の肩がびくりと跳ねる。
否定されると思っていた。
あるいは、必要だから仕方ない、と切り捨てられると思っていた。
なのに最初の言葉は、『悪』という、これ以上ないほどはっきりした言葉だった。
「じゃが、必要悪でもある」
「必要……?」
「同族を殺すのは人間くらいじゃろうな。魔物ですらそうそうしない。獣などは縄張り争いで争うこともあるが、それには子を残し、生き延びるためという理由がある」
「それは……はい」
「じゃが、人は欲で殺す。怒りで殺す。嫉妬で殺す。利益のために、保身のために、いくらでも同族を斬る。理由なんて数えればキリがない……そういう意味では、欲で人を殺すのは人間くらいじゃろうよ。それを悪としてなんと言う?」
「それは……」
胸の奥がひやりとした。
僕は、人を殺せない。
でも、殺すという行為の醜さは知っているつもりだった。
だからこそ余計に、姫様がその醜さをちゃんと見た上で語っているのがわかった。
「しかし、儂は斬る」
姫様は、とてもはっきりと言う。
「悪ではあるが、国と民を守るためならば斬る」
「それは……」
「悪だと知っていても、斬らねば守れぬものがある。だから儂は斬る。綺麗だからではなくて、正しいからでもない。儂の信念を貫くためじゃ……そのためならば、悪にでもなろう。いや……違うな。正義とか悪とか、そういうものは関係ない。成すべきことを成すだけ……じゃな」
なんて強い人なのだろう。
剣が強いとか魔力がどうとか、そういう次元の話じゃない。
この人は、自分が汚れることすら理解した上で、それでも進むと決めている。
それは、僕にはない強さだった。
「強いですね……」
自然とぽつりとこぼれた。
「そうかのう? 自分では、ただ頑固なだけとも思うが」
「僕は……殺せませんでした」
「……そうか」
「レイスとか言われてるけど、あれ、逃げ足が早いだけなんです」
言葉が勝手に飛び出してしまう。
でも、止められそうにない。
「本当は、人を殺すのが怖くてなにもできないだけで、そんなどうしようもない臆病者で……みんなに失望されているんです。役立たずで無能、って……だから、仲間なんてものもいないし。いても、どうせ……」
「よいではないか、それで」
「……え?」
僕は顔を上げた。
アリエルは、本当に不思議そうな顔をしていた。
「お主のそれは、臆病ではない……優しさというのじゃよ」
「で、でも……」
「先ほど人殺しの善悪を語ったが、やはり、根本的には悪なのじゃよ。それをよしとしない。仕方ないと受け入れない……それは、優しさじゃと思うぞ」
「……姫様……」
その瞬間、喉の奥で何かが決壊した。
「姫様ぁああああああ……!」
「ぬおっ!?」
気づけば僕は泣いていた。
わあ、とか、うえええ、とか、情けない声が勝手に出る。
止めようとしても止まらなかった。
「な、なんじゃなんじゃ!?」
「僕っ……そんなこと、言われたことなくてぇ……!」
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになりながら、必死に言葉を紡ぐ。
「落ちこぼれって、言われてばっかりでぇ……! でもでも、こんなこと、姫様が初めてでぇ……!」
「うむ……」
「僕、がんばりますぅ! 姫様に仕えますぅ!」
「……そうか」
姫様の声が、少しだけ柔らかくなった。
それと、ぽんぽんと頭を撫でてくれる。
「では、これからよろしく頼むぞ」
「はいいい……!」
と、そこで。
がちゃり、と扉が開いた。
「姫様、そろそろお風呂の……」
サリーさんだった。
途中で言葉が止まる。
泣きながら姫様に抱きついている僕を見る。
沈黙。
それと、とても冷たい空気。
あれ、いつから冬に?
それから、サリーさは、にっこりと笑う。
「姫様に抱きついているなんて許せません!」
「サリー、待つのじゃ!?」
「おのれ!!!」
部屋が一気に騒がしくなる。
僕はひぃっと悲鳴を上げて、姫様はどうにかこうにか落ち着かせようとして、サリーさんはむきーと暴れていて。
……でも、それはなんだかとても楽しそうで。
僕はここでがんばっていきたい。
そう、心の底から思うことができた。




