105話 姉様達の腕の中で
インサラウム帝国。
その名を聞いた瞬間、儂の思考は大きく止まっていた。
前世で仕えた祖国は、少なくとも黒騎士が存命の間は……つまり、かつての儂が生きている間は問題なかった。
帝国とは幾度も剣を交えたものの、最終的には和平を結んでいたはず。
……ただ、その後を記した文献には、こう残されていた。
黒騎士の死後、帝国は和平を破棄。
再び侵攻を受けて滅びた……と。
すでに昔のこと。
今の儂はフィーゼルマインの王女であり、黒騎士ではない。
だから、忘れようとした。
忘れるのは無理だとしても、考えないようにした。
記憶に蓋をして、必要以上に見ないようにした。
でも、今……
過去が現実に叩きつけられてきた。
過去が追いかけてくる。
前世の祖国を滅ぼした帝国が、今世の祖国を狙っている。
落ち着けるはずがない。
「アリエル」
誰かに呼ばれた気がしたけど、すぐに反応できない。
どうにかこうにか表情には出していないと思うが、そこが限界。
心の中はぐるぐるだ。
目の前の情報を認識できるものの、それを整理することができず……
また、思考を働かせることもできない。
皆が次を考えている。
この最悪の状況をどう打開するか知恵を絞らせている。
フィーゼルマインの存亡に関わる話だ。
儂も、考えなくてはいけない。
そう頭では理解しているけど、体の芯に差し込まれた冷たいものが、どうしても抜けず、落ち着くことができなかった。
心が……どうしようもないほどに揺さぶられていく。
「アリエル」
「ったく……」
と、その時。
ふわり、といい匂い。
それから、柔らかい感触。
気づけば、姉様達に左右から抱きしめられていた。
「姉……様……?」
「怖いのですか?」
エルレイン姉様の静かな声がした。
いつも冷たく整った声のはずなのに、今は驚くほど柔らかい。
「それ、は……」
「アリエルも、年相応のところがあるのですね」
「……」
「でも、安心なさい。わたくしがいますわ」
さらに、ぎゅっと抱きしめられた。
レイ姉様も、同じようにぎゅっと抱きしめてくれる。
「あたしもいるぜ?」
いつも通り、少しぶっきらぼうな声。
でも、力強くて、頼りになると感じた。
「ちょっと目を離していた隙に、なんか戦乙女とか大層な称号をもらったらしいが、お前はまだまだガキだからな。そんな無茶はしなくてもいいんだよ」
「えっと……」
「怖いのなら、怖いって言え。あたし達が守ってやるから安心しろ」
「……レイ姉様……」
二人の温かい言葉が胸に染みる。
エルレイン姉様は、儂の背をゆっくりと撫でてくれている。
レイ姉様は、抱きしめるというより半ば押さえ込むような勢いではあるが、それでも、間違いなく守ろうとしてくれているのがわかった。
それは、間違いのない優しさであり。
そして、姉としての想いであり。
それらが儂の揺れていた心を落ち着かせてくれる。
動揺に震えていたけど、でも、いくらか元に戻ることができた。
完全に、というのは難しいが……
今はこれで十分。
現実を認識して、しっかりと前に進むことができる。
「……すみませぬ」
小さく息を吐き、ようやく自分の声を取り戻す。
「少し動揺しておりましたのじゃ」
「構いませんわ」
エルレイン姉様は、そこでようやく体を離した。
美貌は相変わらず完璧だが、口元だけが少し柔らかい。
「アリエルの年相応らしいところを見られて、姉としては安心ですわ。まあ……礼儀作法などを見ると、やはりというか、別の意味でまだまだ心配ではありますが」
「同感だな」
レイ姉様も離れつつ、儂の腕をつまむ。
「ガキだとしても細すぎるだろ。もっと食って筋肉をつけろ」
「姉様達は、変わりませぬな……」
思わず苦笑してしまう。
たぶん、これでも励ましてくれているつもりなのだろう。
抱きしめてくれるとか、直接的な行動はとてもわかりやすいのだけど。
でも、言葉になると、ちょっと行き過ぎてしまうというか……
ぽんこつ風味が出てくる。
ズレている、と緩和表現するべきか?
……でも、それこそが、なんだかんだで大好きな姉様達、ということなのだろう。




