第9話:一方その頃、地下四十八階層にて
地下四十八階層、通称『紅蓮の煉獄』。
頭上を覆う黒い玄武岩の天井からは、ドロリとした灼熱の溶岩が火の粉を散らしながら滴り落ち、地面の亀裂からは刺激性の強い硫黄ガスが噴煙となって立ち昇っていた。
気温は優に摂氏五十度を超え、呼吸をするだけで喉の粘膜が焼けただれるような熱地獄。
かつてハルトがいた頃は、彼が岩盤に打ち込んだミスリル製の吸熱結界杭と換気バイパスによって、キャンプ地周辺だけは常に摂氏二十度の快適な室温と、澄み切った清潔な空気が保たれていた場所だ。
だが今、この岩陰の野営地に、かつての平穏な面影は微塵も残っていなかった。
「ぎゃあああっ! また来たぞ! 左の溶岩溜まりから、マグマ・スコーピオンの群れだ!」
「クソッ、どこから湧いて出た!? 三十分前に掃討したばかりだろうが!」
怒号、悲鳴、そして鋼鉄と硬い甲殻が激突する鈍い音が、狭い洞窟内に反響する。
かつてギルドから『大陸最強の希望』『無敗の流星』と讃えられた勇者パーティ『白銀の流星』の姿は、今や見る影もなく惨めなものへと成り果てていた。
アーノルドの豪奢なミスリルの白銀鎧は、煤とモンスターの黒い返り血で無残に汚れ、刃こぼれだらけになった聖剣を必死に振り回してサソリのハサミを叩き折っていた。
聖女エレナの純白の神官服は袖が千切れ飛び、自慢の金髪は汗と油でベッタリと顔に張り付いている。
大魔導士ガイルに至っては、岩壁に背中を預けて激しく喘ぎ、極度の魔力枯渇による激痛で指先を痙攣させていた。
「はぁ……はぁ……! ガイル、結界はどうした! なぜキャンプ地の中にまで魔物が平気で入り込んでくるんだ!」
「む、無理ですよアーノルド様! ハルトの野郎が使っていたような、大地の龍脈と共鳴させて魔物を誤認させる特殊な結界杭なんて、私には作れません! 魔石を並べて簡易結界を張っても、この猛烈な熱気で数十分で魔石が破裂してしまうんです!」
「使えん奴め! お前は宮廷魔導士の肩書を持っているんだろうが!」
「何だと!? そもそも、ハルトを『無能な雑用係』だと見下して追い出そうと言い出したのは貴方でしょうが!」
醜い罵り合いが、灼熱の洞窟に響き渡る。
ハルトがアルカディアの荒野で鉄路を切り拓いていたこの三週間の間、深層に取り残された彼らの行軍は、まさに地獄そのものだった。
彼らの日常から真っ先に消え去ったのは、『睡眠』だった。
ハルトがいた頃は、彼の手書きの運行計画表――ダイヤグラムによって、「何時何分何秒に、どの座標から、どんな魔物が何匹湧き出るか」が完璧にプロットされていた。
そのため、彼らは魔物が現れる寸前にだけ武器を構えて必殺技を叩き込み、安全が保証された時間帯には、ふかふかの携帯ベッドで八時間の完全な熟睡を取ることができていたのだ。
だが、ハルトが去り、あのダイヤグラムを踏みにじって破棄した瞬間から、ダンジョンは彼らにとって「一寸先も見えない暗黒の地獄」と化した。
食事中だろうが、包帯を巻いている最中だろうが、魔物は前触れもなく前後左右から奇襲を仕掛けてくる。
ここ数日間、彼らはまともな睡眠を一切取れていなかった。
目を閉じれば首を刈られるという恐怖から、充血した目で周囲の闇を警戒し続け、神経はすでに限界まで擦り切れ、幻覚すら見え始めていた。
「痛い……っ、足がズキズキするわ! エレナ、早く回復魔法をかけろ!」
「無茶を言わないでよ! 私の神聖魔力もとっくに底をついているのよ! ポーションは!? 高級回復薬をちょうだい!」
エレナがヒステリックに叫びながら革の荷物袋をひっくり返したが、乾いた音を立てて床に転がり出たのは、泥に汚れた空のガラス瓶ばかりだった。
「ないわ……ない! 上級ポーションも、解毒薬も、一本も残っていないじゃない!」
「な、何だと!? まだ予備が何十本もあったはずだろ!」
「ここ数日、奇襲を受けるたびに皆でがぶ飲みしていたら、あっという間になくなるに決まってるでしょ! ハルトがいた頃は、あいつが毎晩薬草をすり潰して調合して、朝起きれば棚いっぱいに新しいポーションが並んでいたのよ!」
エレナは泥まみれの床にへたり込み、ボロボロと大粒の涙をこぼした。
「水だってそうよ! この水筒に入っている水、ぬるくて泥臭くて、飲むだけで吐き気がするわ! ハルトは……ハルトは毎日、冷たい清潔な湧き水をどこからか汲んできて、乾燥ハーブを浮かべた温かいお茶まで淹れてくれたのに……! 夜には、干し肉を柔らかく煮込んだ絶品のポトフを作ってくれたのに……! 何で私たちが、こんなカビた乾パンと泥水を啜らなきゃいけないのよ!」
「黙れ! 黙れエレナ!」
アーノルドが顔を真っ赤にして怒鳴り散らした。
「あいつはただの無能な荷物持ちだ! 飯炊きや雑用など、地上に戻れば銀貨数枚でいくらでも雇える! 俺の聖剣の力があれば、次の階層のフロアボスなど一撃で消し炭だ! ボスを倒して深層の宝箱を開ければ、万病を治すエリクサーも、山のような金銀財宝も手に入るんだよ!」
「そのボス部屋まで、どうやって行く気ですか……?」
ガイルが乾いた冷え切った声で呟いた。
「ハルトが残していった『迷宮の安全進行ルート図』も、貴方が破り捨てたでしょう。この先は、未知の即死トラップが密集する地雷原ですよ。索敵もできず、罠の解除もできず、ポーションも魔力もない満身創痍の状態で突っ込めば……全滅しますよ」
「ぐっ……!?」
痛いところを突かれ、アーノルドの喉が引き攣った。
だが、傲慢さだけで生きてきた男に、今さら自分の過ちを認める度量などあるはずもなかった。
「ふ、ふざけるな……! あいつだ……全部ハルトの野郎の仕業だ! あいつが嫌がらせで、迷宮の魔導回路を狂わせていきやがったんだ! 地上へ戻ったら、ギルドに手を回してあいつを指名手配にしてやる……!」
闇の奥深くから、さらなる強大な魔獣たちの足音が、地響きを立てて近づいてきていた。
自分たちを生かしていた「見えないインフラ」を自らの手で破壊した愚者たちに、ダンジョンの冷酷な裁きが刻一刻と迫っていた。




