第8話:王都の市場を揺るがす朝採れ野菜
迷宮都市オラクルの東門――通称『死出の門』。
東の魔境へと続くその巨大な黒鉄の城門は、普段であれば滅多に開くことはない。
たまに門を叩くのは、死を覚悟して魔境に足を踏み入れた一握りの命知らずな冒険者か、あるいは荒野で仲間と荷物を失い、血と泥にまみれて這い戻ってきた商隊の哀れな生き残りくらいのものだった。
そのため、門番の衛兵たちも退屈そうにあくびを噛み殺し、槍の柄に顎を乗せて居眠りを貪っているのが日常の風景だった。
だが、その日の早朝。
濃い朝霧が石畳の街路を冷たく包み込んでいた午前六時。
東の荒野の彼方から、大地そのものが悲鳴を上げているかのような、地鳴りのごとき重低音が地響きとなって伝わってきた。
「……ん? おい、何だこの揺れは? 城壁が震えているぞ!」
「地震か!? いや、違う……何か、規則正しい金属の激突音が……!」
門番たちが慌てて城壁の上へと駆け上がり、震える手で真鍮の遠眼鏡を覗き込んだ。
次の瞬間、乳白色の朝霧を切り裂いて、空を劈くような凄まじい金属の絶叫がオラクルの空に木霊した。
――ポォォォォォォォォォォンッ!!!!
「ひっ……!? な、何だ今の音は!?」
「も、魔獣の襲来か!? ドラゴンの咆哮か!? 全軍、戦闘配備――!」
城壁の警鐘が狂ったように乱打され、兵士たちが弓に矢をつがえ、投石器の綱を握りしめてパニックに陥る。
だが、霧のベールを破って姿を現したのは、生物ではなかった。
今まで世界の誰も見たことがない、漆黒の装甲をまとった巨大な鋼鉄の怪物だった。
そびえ立つ煙突から純白の魔力蒸気を豪快に吹き上げ、朝露に濡れた二本の銀の線条の上を、信じがたい猛スピードで滑走してくる。
怪物の先頭には鋭利な三角形の排障器が睨みを利かせ、その後ろには木製の貨車が整然と何両も連結されていた。
キィィィィィィッ……!
怪物は城門のわずか数十メートル手前、敷設されたレールの終端で、白い蒸気を吐き出しながら寸分の狂いもなく停止した。
ピタリと止まったその巨躯から、微かにカチカチと熱を持った金属の冷める音が響く。
静まり返る城門前。誰もが息を呑み、恐怖に震えながらその怪物を見つめていた。
やがて、怪物の運転席の扉が開き、一人の黒髪の青年――ハルトが軽やかにステップを降りて地面に着地した。
続いて、助手席から降りてきたのは、透き通るような白銀の髪をなびかせた、息を呑むほど気品に満ちた少女だった。
「ひ、姫様……? 嘘だろ、あれは……アルカディア領のアステリア皇女殿下ではないか!?」
城壁の上の警備隊長が、驚愕のあまり持っていた長槍をガタガタと震わせた。
中央の権力闘争に敗れ、呪われた不毛の地へと追放同然で追いやられたはずの皇女が、謎の鋼鉄の巨人を従えて堂々と現れたのだ。
「オラクルの皆さん、早朝からお騒がせして申し訳ありません」
アステリアが凛とした、涼やかな美声で城門を見上げた。
「こちらはアルカディア領筆頭技師長、ハルト殿です。本日は、我が領地の特産品をこの街の皆様にお届けするため、交易に参りました」
「と、特産品……? あの不毛の飢餓の地から、こんな化け物に乗って……?」
軋んだ音を立てて城門が恐る恐る開かれ、異変を察知した商人や住民たちが恐る恐る外へと集まってきた。
その人混みをかき分けて進み出てきたのは、仕立の良い豪奢なビロードのローブを着た肥満体の男――オラクル商業ギルド長、ゴルドンだった。
「アステリア殿下……ご無事で何よりです。ですが、交易とは一体何の冗談ですかな?」
ゴルドンは疑わしそうに眼鏡を押し上げ、機関車と貨車をジロジロと眺め回した。
「アルカディアからここまで、早馬を乗り継いでも一ヶ月、重荷を積んだ商隊なら三ヶ月はかかる死の荒野ですぞ。そんな長旅を経て運べる物など、カビの生えた干し肉か、塩漬けの屑肉くらいのものでしょう。このオラクルは迷宮都市、冒険者たちが求めるのは滋養のつく本物の食料ですぞ」
「ええ、よく存じております。ですから、本物の食料をお持ちしました」
ハルトが静かに歩み寄り、貨車にかけられていた麻の防水布を一気に引き剥がした。
バサリッ!
朝の清冽な光の中に露出したその積み荷を見た瞬間、広場を埋め尽くしていた数百人の商人や住民たちが、一斉に目を見張り、言葉を失った。
「な……な、何だこれは……!?」
貨車の中に整然と並べられた木箱の山。
そこに積まれていたのは、信じがたいほど瑞々しい、ルビーのように真っ赤に完熟した大玉の高原トマト。
触れればパリッと快音を立てそうな、青々とした大ぶりの高原レタス。
そして、傷一つなく、朝摘みされたばかりの甘い芳香を放つ貴重な薬草――『月光草』の巨大な花束だった。
野菜の葉の表面には、今まさに畑から切り出してきたばかりの、冷たい朝露の粒がキラキラと宝石のように光り輝いている。
腐敗防止の防腐魔法の魔力光など一切ない。正真正銘、完全無欠の「朝採れの生鮮品」だった。
「ば、馬鹿な……!? 朝露が……まだ丸いまま残っているだと!?」
ゴルドンが我を忘れて駆け寄り、震える指先でトマトを一つ持ち上げた。
青々としたヘタの力強い感触。薄い皮の下には、今にも弾けそうな完熟の果肉。
ゴルドンは堪らず、そのトマトにかぶりついた。
サクッ……ジュワアアアアッ!
「んんんんんっ……!? う、美味いっ! 何だこの甘みは!? 酸味と濃厚な果汁が、口いっぱいに溢れ出してくる……!」
ゴルドンの目から涙が溢れ出した。
迷宮都市オラクルは、四方を不毛の岩山に囲まれているため、新鮮な野菜は王都からの高価な転移輸送に頼るしかなく、一口食べるだけで金貨数枚が飛ぶ超高級品だった。街の住民や一般冒険者は、一年中干し肉と硬い黒パン、味のないスープで飢えを凌いでいたのだ。
「あり得ん! あり得んぞ! アルカディアからここまで、一体何日かけて運んだというのだ!?」
「今朝の午前二時にアルカディアの畑で収穫し、午前六時にここへ到着しました」
ハルトが懐中時計の銀の鎖を揺らしながら、極めて平然とした口調で言った。
「所要時間は、給水停車を含めてちょうど四時間です」
「よ、四時間……ッ!? あの三ヶ月かかる死の荒野を、わずか四時間で駆け抜けたというのか!?」
ゴルドンの絶叫が、オラクルの城壁に木霊した。
その瞬間、周囲で見守っていた商人や住民たちの理性が完全に消し飛んだ。
「か、買う! そのトマト、全部我が商会で買い取るぞ! 木箱一つで金貨十枚……いや、金貨二十枚だ!」
「ふざけるなゴルドン、独占させるか! ウチの酒場にそのレタスを譲ってくれ! 金貨三十枚出す!」
「その月光草を売ってください! 傷一つない朝採れの月光草なら、深層攻略用の特級エリクサーが作れる! 言い値で全量を買い取ります!」
怒号と歓声が入り乱れ、商人たちが血相を変えて金貨の革袋を天に突き出した。
ハルトが事前に作成していた販売ダイヤグラムに従い、整然と取引が行われていく。
奪い合うようにして木箱が運び出され、代わりにハルトたちの足元には、ずっしりと重い麻袋が次々と積み上がっていった。
わずか四十分後。
貨車三両分に満載されていた農作物と薬草は、一片の葉すら残さずに完売した。
「ハ、ハルト様……これ……!」
アステリアが、震える手で開いた麻袋をハルトに見せた。
中には、朝陽を浴びて眩く乱反射する、無数の純金貨と白金貨が山のように詰まっていた。
「金貨三千枚……白金貨が五百枚……! こんな大金、アルカディア領の年間予算を軽く超えています……! たった一度の往復で、こんな……!」
「言ったでしょう、アステリア様。インフラとは、世界を豊かにするための最も確実な魔法です」
ハルトは優しく微笑み、空になった貨車の床板をポンと叩いた。
「新鮮なものを、早く、安全に、大量に届ける。それだけで人は集まり、富は循環します。……さあ、アステリア様。稼いだ金で、今度はオラクルの良質な小麦粉と防寒具、そして家畜を満載にして帰りましょう。村の皆が、腹を空かせて待っています」
歓喜に沸き立つオラクルの街並みを背に、漆黒の魔導機関車は、次なる定時運行の汽笛を誇らしげに鳴り響かせた。




