第7話:三ヶ月の道のりを四時間で
アルカディア領から、西の交易大都市オラクルまでを隔てる広大な不毛地帯――通称『嘆きの荒野』。
全長約三百キロメートル。
乾燥した赤茶けた土壌からは白い塩分が吹き出し、風が吹くたびに皮膚を切り裂くような鋭利な砂嵐が吹き荒れる。
道中には『砂漠の蠍』や、集団で獲物を貪る『荒野の狼魔』など無数の凶悪な魔獣が群れをなし、地面の裂け目からは毒性の強い紫色の瘴気が絶え間なく這い出していた。
通常の商隊がこの荒野を越えようとする場合、重装備の護衛冒険者を数十人雇い、大量の水と食料をラクダや荷馬車に満載し、命がけで進んでも最低片道三ヶ月を要する「生還率五割の死の旅路」だった。
そのため、アルカディアは長年にわたり完全な陸の孤島として見捨てられ、飢餓に喘いできたのだ。
だが、ハルトにとっては、それは単なる「未開発の線路敷設候補地」に過ぎなかった。
「ハルト様、夜を徹して測量図面の清書を終えました!」
砂埃除けの天幕の中で、アステリアが羊皮紙の図面を机いっぱいに広げた。
目の下にわずかに隈を作りながらも、その紅の瞳は新しい事業に挑む闘志で爛々と輝いている。
「ありがとうございます、アステリア様。……ふむ、中央にそびえ立つ黒岩の峡谷――『竜の顎』が最大の難所ですね」
「はい。従来の馬車道は、あの険しい断崖を避けるために大きく南の湿地帯へと迂回していました。それだけで余計に一ヶ月以上の日数がかかり、湿地で熱病にかかって命を落とす商人が後を絶ちませんでした。ですが、直進しようとすれば急激な高低差に阻まれます……」
「迂回する必要はありません」
ハルトは自前の三角定規と羽ペンを手に取り、図面の峡谷部分に一本の優美な弧を描く曲線を走らせた。
「鉄道には『登攀限界』という鉄則があります。鉄のレールと鉄の車輪は、摩擦係数が小さいため、急な坂道では車輪が空転して登れなくなります。千分の二十五――すなわち、百メートル進んでわずか二・五メートル登る程度の極めて緩やかな勾配を維持しなければなりません。そこで、この山の等高線に沿って円を描くように線路を敷く『オメガループ線』を採用します」
「る、るーぷ線……?」
「ええ。山の斜面を螺旋状にぐるりと一周しながら、ゆっくりと高度を稼いで山頂の峠を越える工法です。距離はわずかに伸びますが、機関車が牽引力を失わずに時速六十キロを保ったまま峠を越えられます」
前世の日本の山岳鉄道――碓氷峠や板谷峠などで、過酷な地形に立ち向かった先人たちの血と汗の結晶。
その智慧が、今この異世界の未開の荒野で鮮やかに蘇ろうとしていた。
「そして、今回の敷設工事には、前代未聞の工法を用います。名付けて『前進ピストン工法』です」
ハルトが提示した作業工程に、村の大工や鍛冶屋たちも目を見張った。
村の工房総出で突貫製作した六両の頑丈な木製無蓋貨車を、開拓者一号機の後部に連結する。
そこに、アルカディアの川原で採取した無数の割栗石と、油を染み込ませて防腐処理を施した枕木、そしてハルトが精製したミスリル製の結界杭を満載する。
機関車が線路の先端まで資材を一気に運び、そこでハルトが【魔導軌道敷設】を発動して大地に二本の光のレールを実体化させる。
領民たちが手際よくバラストを敷き詰め、枕木を等間隔に配置して、犬釘を打ち込んでレールを強固に固定する。
敷設が完了した瞬間、機関車は自ら敷いたレールの上を一歩前進し、さらにその先の荒野へと資材を運ぶ――。
「資材を運ぶために人間が泥まみれになって歩く必要はありません。機関車自身に、自分が走るための道を運ばせるんです」
「な……何という合理性……! これなら、補給部隊が途中で途絶える心配もありません!」
アステリアが感嘆の声を上げた。
翌朝から始まった本線敷設工事は、まさに大地を切り裂く破竹の進撃だった。
シュゴオオオオッ! と力強い白煙を吹き上げながら、開拓者一号機が何十トンもの資材を牽引して最前線へと滑り込む。
屈強なアルカディアの男たちが、掛け声を合わせてスコップとツルハシを振るう。
「おい、犬釘は垂直に打ち込め! 頭を潰すなよ!」
「枕木の間隔はきっちり六十センチだ! ハルト総裁の図面通りに揃えろ!」
「レールの継ぎ目には五ミリの隙間(遊間)を空けておけ! 日中の熱で鉄が伸びてレールが歪むのを防ぐためだ!」
ハルトの徹底した指導のもと、ただの農民だった男たちが、瞬く間に誇り高き「プロの保線マン」へと成長していった。
そして、ハルトが両手を地に突き、魔力を解き放つ。
キィィィィン――ッ!
青白い閃光が地表を走り、寸分の狂いもない二本の銀条が荒野の彼方へと猛烈なスピードで伸びていく。
レールが大地に定着するたび、奇跡のような光景が広がった。
地中を流れる龍脈の清らかなエネルギーがレールを通じて放射され、周囲数十メートルを覆っていたドス黒い瘴気が、ジュウジュウと音を立てて浄化されていく。
塩を吹いていた赤土が黒々とした肥沃な土壌へと変わり、枯れ草の下から瑞々しい野草の若芽が吹き出してきた。
途中で現れた巨大な魔獣の群れ――体長三メートルを超える荒野のハイエナの群れが、牙を剥いて襲いかかってきたが、銀のレールが放つ聖なる結界の光に触れた瞬間、パチパチと青い稲妻に弾かれて悲鳴を上げ、尻尾を巻いて逃げ去っていった。
「すげえ……魔獣が、一匹も近づけねえぞ!」
「本当に、このレールの上は神様の領域なんだ!」
男たちの士気は限界を突破し、作業速度はさらに加速した。
通常であれば国家規模の予算と数十年の歳月を要する大土木事業。
それが、ハルトの現代インフラ理論と、機関車の桁外れの馬力、そして民衆の死に物狂いの団結によって、わずか十四日間の突貫工事で完遂されようとしていた。
そして――十四日目の夕刻。
「ハルト様……! 見えました、オラクルの街です……!」
機関車の屋根の上から、アステリアが歓喜に涙を詰まらせた声を張り上げた。
茜色に染まる地平線の先に、そびえ立つオラクルの巨大な外壁と、何千もの街の灯火がはっきりと姿を現していた。
かつてアルカディアの人々が、三ヶ月の地獄を見なければ決して辿り着けなかった約束の地。
それが今、自分たちが手作業で敷き詰めた銀のレールの真正面に、確かに横たわっていた。
「全線敷設、完了。……アルカディア・オラクル本線、開通だ」
ハルトは懐中時計の蓋を閉じ、深く息を吐いた。
総延長、二百八十キロメートル。
開拓者一号機の巡航速度なら、所要時間はわずか四時間。
「三ヶ月の死出の旅路を、わずか四時間か。……さあ、アステリア様。オラクルの連中に、新時代の幕開けを教えてやりましょう」




