第6話:試運転――時速百キロの衝撃
ガタン――ゴトン、ガタン――ゴトン。
金属と金属が規則正しく噛み合う重厚なリズムが、アルカディアの大地に響き渡っていた。
機関車『開拓者一号機』のキャブ内には、過熱された魔力蒸気の熱気と、シリンダーを満たす機械油の独特な芳香が立ち込めている。
だが、それは息苦しい熱気ではなかった。数百年の眠りから目覚め、極限まで研ぎ澄まされた鉄の巨人が、全力で命の鼓動を脈打たせている証だった。
「ハルト様……! 景色が、景色が飛んでいきます……!」
助手席の手すりに両手をかけ、身を乗り出すようにして前方を見つめるアステリア。
その透き通るような白銀の長い髪が、キャブの窓から吹き込む突風に激しく乱れていた。
時速五十キロ。
この世界の一般的な馬車が、舗装された平坦な街道で出す巡航速度はせいぜい時速十キロ前後。早馬を限界まで走らせ、馬が口から泡を吹くほど追い詰めても時速四十キロが限界だ。
しかも、ここは無数の巨岩と窪地が点在する不毛の荒野。馬車であれば一秒で車軸が折れ、乗員が地面に叩きつけられて骨を砕かれるような悪路である。
それにもかかわらず、レールの上を滑る機関車は、まるで鏡のように平滑な氷の上を滑走するボートのように、驚くほど揺れが少なかった。
「アステリア様、窓から顔を出しすぎないでください。風圧で呼吸を乱します」
「は、はいっ! 申し訳ありません、ですが……こんな感覚、生まれて初めてで……!」
興奮で頬を真っ赤に上気させたアステリアが、振り返ってハルトを見つめる。
その瞳には、かつて干上がった水路で鍬を握りしめていた時の悲壮感は微塵もなかった。まるで新しい玩具を手に入れた子供のように、純粋な好奇心と感動の光が満ち溢れている。
ハルトは冷静に、運転台の計器板に並ぶ真鍮製のメーター類を一瞥した。
ボイラー蒸気圧、十六気圧。魔力循環率、八十八パーセント。給水ポンプの脈動、毎分百二十ストローク。
龍脈からの魔力供給は極めて潤沢で、バイパス修理を施した配管からも蒸気漏れは一滴も見られない。
機関車本体のポテンシャルは、ハルトの事前の計算を遥かに上回っていた。
「……まだまだ、こんなものじゃないですよ」
「え……?」
「この機関車の本当の力、神代の輸送機関の神髄をお見せします」
ハルトは右手を伸ばし、逆転機ハンドルを前進巡航位置へと進めた。
そして、主蒸気加減弁――重厚な鋳鉄製のスロットルレバーを、さらに二段、深く引き倒す。
ゴオオオオオオオッ!!
機関車のシリンダーから、先ほどとは桁違いの激しい排気音が轟いた。
まるで大地の下に眠る巨大な地竜が覚醒し、咆哮を上げたかのような猛烈な振動が、床板を通じてハルトとアステリアの足の裏へと伝わってくる。
三対の巨大な鋳鋼製動輪が、レールを削らんばかりのトルクで猛烈な回転を始めた。
時速六十キロ……七十キロ……八十キロ――!
「きゃっ……!?」
背中を強い見えない巨人の掌でシートへと押し付けられ、アステリアが小さな悲鳴を上げた。
加速Gだ。
車窓の外の景色が、もはや個々の輪郭を保てず、色の帯となって後方へ飛ぶように流れていく。
荒野に点在していた巨岩も、枯れ果てた低木も、視界に入った瞬間に後ろへと吸い込まれていく。
レールの継ぎ目を踏み越える音が、ガタンゴトンというリズムから、ダララララッという機関銃のような連続音へと変わった。
速度計の針は、ついにこの世界の誰も見たことがない領域へと突入した。
「時速……百キロ到達」
ハルトの低く落ち着いた呟きに、アステリアは息を吸い込むことすら忘れていた。
時速百キロメートル。
それは、最上級の飛行魔法を極めた大魔導士が、命を削るように魔力を消費して風に乗った時にしか出せない神速。
それを、重さ数十トンもある鋼鉄の巨人が、何食わぬ顔で、涼しい顔をして維持し続けているのだ。
しかも、車内は驚くほど安定している。手元に置いた水筒の水面が、細かく波紋を立てている程度で、立って歩くことすら可能なほどだった。
「す、すごいです……ハルト様! これなら……これなら本当に、あの忌まわしい死の荒野を、あっという間に駆け抜けてしまえます!」
アステリアは叫んでいた。
風圧に涙を滲ませながら、満面の笑顔でハルトの作業着の袖をぎゅっと握りしめていた。
彼女がこれまで生きてきた世界は、常に「遅さ」と「距離」という残酷な壁に縛られていた。
王都へ飢餓を救う嘆願書を送るだけで往復半年。
援軍を求める使者を出しても、戻ってきた時には村が一つ全滅していた。
そんな理不尽な絶望を、この圧倒的なスピードが、跡形もなく粉砕していく。
「ああ。だが、速度を出すことだけが鉄道の目的じゃない」
ハルトは懐中時計を確認しながら、徐々にスロットルを戻し始めた。
「大切なのは『定時性』と『安全性』だ。どんなに速くても、脱線したり、時間が読めなければインフラとは呼べない。……一キロ地点、制動準備」
ハルトが空気ブレーキの減速弁をミリ単位で操作する。
プシュウウウッという圧縮空気の開放音とともに、車輪に鋳鉄の制動靴が密着した。
キィィィィィンと耳を澄ませるような摩擦音が響き、車体が滑らかに減速していく。
前のめりに倒れるような急激なショックは一切ない。
時速百キロから、六十キロ、三十キロ、そして歩行速度へ。
敷設された試験レールの終端、ぴったり十メートルの位置で、開拓者一号機は何事もなかったかのようにピタリと静止した。
「ふう……っ」
アステリアが胸を押さえて大きく息を吐き出した。
その場にへたり込みそうになるほど足が震えている。だがそれは恐怖ではなく、世界の常識が根底から覆された瞬間に立ち会ったことへの、魂の震えだった。
「信じられません……。本当に、夢を見ているようです……」
「夢じゃありませんよ。すべて計算通りの現実です」
ハルトはキャブの窓から身を乗り出し、走ってきた線路を振り返った。
荒野の真ん中に真っ直ぐ引かれた、銀色の轍。
そして、そのレールの脇を、息を切らしながら村人たちがカゴや鍬を放り出して歓声を上げて走ってくるのが見えた。
誰もが泣いていた。抱き合い、飛び跳ね、天を仰いでいた。
「ハルト様……次は、何をなさるのですか?」
アステリアが、全幅の信頼と崇敬を込めた紅の瞳でハルトを見上げた。
ハルトは薄く笑みを浮かべ、胸ポケットから使い古した野帳を取り出した。
「試運転は完全合格だ。機関車の足腰にも、レールの耐久性にも一切の問題はない。……なら、次は本番だ」
ハルトは野帳に描かれた大陸地図の、アルカディアから西へと延びる一本の直線をペン先で叩いた。
「このレールを、西の交易大都市『オラクル』まで一気に伸ばす。――片道三ヶ月の死の荒野を、わずか四時間で繋ぐ本線開通工事の開始だ」




