第5話:第一号機、火入れ
「アステリア様、上がってください。助手席へ」
「え……? わ、私も乗ってよろしいのですか……!?」
運転台のステップに手をかけたアステリアが、信じられないといった様子で目を丸くした。
泥まみれの作業着の裾をつまみ、躊躇いがちに身を縮める。
「ですが、私は機械のことなど何も分かりませんし……服も汚れていて、こんな立派な場所に足を踏み入れてはご迷惑では……」
「この機関車は、あなたと領民の汗で蘇ったんです。領主であるあなたが最初の乗客でなくて、誰が乗るんですか」
ハルトが運転台から身を乗り出し、右手を差し伸べた。
迷いは一瞬だった。アステリアはその手を取ると、小さな息を呑みながら、鉄のステップを一段ずつ踏みしめて運転台へと登ってきた。
「……すごい……!」
キャブに足を踏み入れた瞬間、アステリアの口から感嘆の吐息が漏れた。
狭い空間の中に、機能美の極致とも言える無数の計器類が整然と並んでいる。
磨き上げられた真鍮の圧力計、青く燐光を放つ魔力流量計、幾重にも張り巡らされた銅のバイパス配管、そして重厚な鋳鉄製の加減弁と逆転機ハンドル。
宮殿の豪華絢爛な装飾とは全く違う。一ミリの無駄もなく、ただ「走る」という目的のためだけに研ぎ澄まされた、圧倒的な工業の美しさがそこにあった。
「ハルト様……これらすべてを、お一人で動かすのですか?」
「ええ。前世……いや、俺の故郷では、何千何万もの人々を乗せて、毎日寸分の狂いもなく動かしていました。……アステリア様、この鎖を持ってください」
ハルトが天井から吊り下げられた真鍮の引き綱を指差した。
汽笛弁へと直結された、誇り高き綱だ。
「これを……ですか?」
「合図です。この世界に、新しい時代の幕開けを告げるための」
ハルトは頷き、メインの魔力流入バルブに手をかけた。
深呼吸を一つ。
かつて迷宮の深層で、理不尽に荷物持ちとして見下され、切り捨てられた日々の記憶が脳裏をかすめる。
だが、もう過去を振り返る必要はない。
俺のレールは、今ここから、この希望に満ちた大地へと向かって真っ直ぐに伸びているのだ。
「全系統点検完了。逆転機、前進百パーセント。シリンダードレン弁、開放」
ハルトの指先が、流れるような手際でコックを切り替えていく。
「ボイラー圧力、十四気圧到達。――火入れ、完了!」
ガコンッ! と、ハルトが主魔力弁を一気に引き絞った。
その瞬間、炉心の中で圧縮されていた純白の魔力蒸気が、一対の巨大なシリンダーへと一気に流れ込んだ。
シュゴォォォォォォッ!!
煙突とシリンダーのドレン口から、猛烈な勢いで真っ白な蒸気が吹き上がった。
石炭の黒煙ではない。大地の清浄な龍脈が生み出した、透き通るような白銀の魔力蒸気だ。
蒸気は陽光を浴びて虹色の光を放ち、機関車の巨躯を包み込むように荒野の空へと立ち昇っていった。
「アステリア様、汽笛を!」
「はいっ……!」
アステリアが両手で真鍮の綱を握りしめ、胸いっぱいに祈りを込めて、力いっぱい引き下ろした。
――ポォォォォォォォォォォォォンッ!!!!
大地を揺るがす、重厚でどこまでも澄み渡る金属の咆哮が、アルカディアの大気を震わせた。
ビリビリと空気が震え、その音は遥か数十キロ先、魔境の深淵にまで轟き渡った。
瘴気の森の奥深くで獲物を狙っていた魔獣どもが、かつて聴いたこともない「世界の主」のような咆哮に怯え、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑っていく。
「う、うわあああっ!!」
「鳴った……! 鉄の怪物が、叫んだぞ!!」
線路の脇で見守っていた領民たちが、驚愕のあまり耳を塞ぎ、次の瞬間には割れんばかりの歓声を上げた。
子供たちが飛び跳ね、老人が涙を流して抱き合っている。
それは、絶望に支配されていた辺境の地に、初めて響き渡った「生命の産声」だった。
「出発信号、進行」
ハルトは窓から前方の直線レールを確認し、右手に力を込めた。
「加減弁、微速開」
キィィィィ……ッ。
巨大な三対の連結動輪が、軋むような音を立ててレールを強く噛んだ。
動輪に直結された巨大なロッドが、前後に力強くスライドする。
六十トンを超える鉄の巨躯が、大地の重力を振りほどくように、ゆっくりと、だが確実に前へと進み始めた。
ガタン――ゴトン。
ガタン――ゴトン。
「動いた……! 動いています、ハルト様! 馬もいないのに、この巨大な鉄の塊が、前へ進んでいます……!」
アステリアが窓枠に身を乗り出し、頬を紅潮させて叫んだ。
風が吹き込んできた。
荒野の澱んだ風ではない。レールが撒き散らす清浄な魔力の光粒を含んだ、爽快で力強い風が、彼女の白銀の髪を美しくなびかせる。
ガシャン、ガシャン、ガタンゴトン――!
動輪の回転速度が徐々に上がっていく。
最初は歩くほどの速さだった機関車は、たちまち馬の小走りを追い抜き、時速三十キロ、四十キロ、五十キロへと滑らかに加速していく。
車窓の外を流れる荒野の景色が、まるで別の世界のように後方へと飛ぶように流れていく。
揺れは驚くほど少なかった。
ハルトの緻密な計算によって敷設された道床のバラストと枕木が、車輪から伝わる凄まじい衝撃を完璧に分散・吸収していたからだ。
「こんな……こんな速度、乗馬ですら経験したことがありません……! それなのに、立っていられるほど揺れないなんて……!」
アステリアは手すりを握りしめながら、溢れ出る涙を止めることができなかった。
宮廷を追われ、見捨てられた辺境で、民が餓死していくのをただ見つめることしかできなかった無力な日々。
父からも、兄たちからも見捨てられ、「お前などここで野垂れ死ね」と冷遇された孤独な絶望。
そのすべてが、この猛烈な鉄の疾走の前に、吹き飛ばされていくようだった。
「アステリア様、前方を。一キロ地点の制動目標です」
「あ……はいっ!」
前方に、敷設したレールの終端が見えてきた。
ハルトは冷静沈着にスロットルを閉じ、空気ブレーキの弁を静かに絞った。
シューーーーーッ!
キィィィィィィッ!
制動靴が動輪を挟み込み、白い摩擦の煙を上げながら、巨大な機関車は何の乱れもなく、寸分の狂いもなく敷設終端の十メートル手前でピタリと停止した。
「試運転、終了。――全行程、定時着着」
ハルトが懐中時計の蓋をパチンと閉めた。
静寂が訪れたキャブの中で、アステリアはハルトの手を両手で強く、強く握りしめた。
その瞳には、かつてない確信と、熱い崇敬の光が宿っていた。
「ハルト様……私、確信しました。あなたの引くレールの先には、絶対に誰も見たことがない素晴らしい世界が待っています。私は生涯をかけて、あなたとこの鉄路を守り抜いてみせます!」
「ありがとうございます、アステリア様。頼りにしています」
窓の外を見れば、レールに沿って息を切らしながら走ってきた領民たちが、機関車を取り囲んで割れんばかりの歓声を上げていた。
もはや誰も、この鉄の怪物を呪われた遺物などと呼ぶ者はいなかった。
彼らにとって、これは未来を運んできた奇跡の象徴だった。
――だが、その同じ頃。
遥か数百キロ西、地下四十五階層の暗黒の迷宮では、全く正反対の悲鳴が木霊していた。
「おい! どうなっているんだガイル! 結界が消えてるぞ!」
「わ、私に言われても困りますよアーノルド様! ハルトが打ち込んでいた魔力杭が、急にただの鉄くずになって魔力を通さないんです!」
冷たい石畳の上で、魔獣の群れに囲まれながら、勇者アーノルドが血相を変えて剣を振り回していた。
かつてハルトが秒単位で管理していた魔物の湧き周期は完全に狂い、寝込みを強襲された聖女エレナの豪奢なローブは泥と血にまみれていた。
「痛い……痛いわアーノルド! ポーションは!? 早く高級回復薬をちょうだい!」
「ね、ねえよ! 荷物袋の中は、昨日飲んだ空き瓶ばかりだ! クソッ、いつもならハルトの野郎が、朝起きる前に新しいポーションを棚いっぱいに並べていたはずなのに……!」
アーノルドの脳裏に、追放の瞬間にハルトが残していった言葉が蘇る。
『今日この瞬間をもって、この迷宮の補給線はすべて運行を停止する』
「ふ、ふざけるな……! あいつがいないだけで、この俺が……選ばれし勇者が、こんなところで足止めを食らうはずがないんだああああっ!!」
闇の中で光る魔獣の赤い瞳を前に、アーノルドの絶叫が虚しくダンジョンの底へと吸い込まれていった。




