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第69話:皇帝の退位と新時代の盟約

帝都アルカディアの中央宮殿、その豪奢を極めた『黄金の謁見の間』は、かつてない静謐に包まれていた。

 玉座に座るのは、病の影を濃く宿しながらも、威厳を失っていない老皇帝フリードリヒ・フォン・アルカディア。

 その御前には、重臣や近衛貴族ではなく、ただ二人――純白の鉄道制服を纏ったハルト・クゼと、紺碧の正装に身を包んだ皇女アステリアが立っていた。


「……面を上げよ、アステリア。そして、ハルト・クゼ」

 老皇帝の嗄れた、しかし芯の通った声が天井の高い大広間に響いた。

「ヴァルハイトの愚行……禁呪兵器を起動し、大平原の民を蹂躙せんとした凶行を鎮圧し、帝国の完全な破滅を未然に防いでくれたこと、心より礼を言う」


「皇帝陛下、我らはただ、定められた運行ダイヤと線路の安全を守ったまでに過ぎません」

 ハルトは胸に手を当て、寸分の狂いもない礼節を保ちながら応じた。

「鉄道とは、平和と秩序の上にしか走らぬもの。運行を脅かす障害物を排除するのは、鉄道員としての当然の責務です」


「くっ……相変わらず、無欲というか、規格外の男よな」

 老皇帝は苦笑を漏らし、それから深く息を吸い込んだ。

「本日、そなたらを呼んだのは他でもない。――わしは本日限りで、帝位を退く」


 謁見の間に、わずかな沈黙が降りた。

 老皇帝は自らの頭上に載る黄金の帝冠に手を伸ばし、それをゆっくりと外して玉座の脇のクッションへと置いた。

「ヴァルハイトの暴走を許したのは、ひとえにわしの不徳。もはやわしに、この広大な帝国を統べる資格はない。……アステリア」

「はい、父上」

「そなたに、この冠を継いでほしい。暗黒海峡を越え、東方との道を拓き、十万の軍勢を戦わずして心服させたそなたこそが、大帝国第十七代皇帝に最もふさわしい。そなたの手で、この国を新しく導いてくれぬか」


 それは、一国の最高権力への招聘であった。

 かつて無能と見下され、泥まみれの辺境へと追放された皇女が、帝国の頂点へと登り詰める――世俗の物語であれば、これ以上ない栄光の結末であったろう。

 しかし、アステリアの表情は穏やかであり、その緋色の瞳には一抹の迷いもなかった。


「父上。……身に余るお言葉、恐悦至極に存じます。ですが、私はその冠をお受けすることはできません」

「……何?」

 老皇帝が驚愕に目を見張った。


「私が生きるべき場所は、閉ざされた宮殿の奥深く、高い玉座の上ではありません」

 アステリアは胸に手を当て、澄み渡る声で語りかけた。

「私は、泥にまみれながら枕木を運ぶ人々の汗を知りました。鉄を鍛えるドワーフの誇り、森を愛するエルフの優しさ、そして、定時に届くパンと牛乳に笑顔を咲かせる名もなき民の温もりを知りました。……私の心は、あの銀のレールの上にあります」


 アステリアは隣に立つハルトを見つめ、慈愛に満ちた笑みを向けた。

「私は、アルカディア鉄道の副総裁として、ハルト様と共に生きてまいります。人と人を繋ぎ、国と国を結び、誰もが笑顔で行き交う世界を創ることこそが、私の天命です」


「アステリア……」

 老皇帝は呆然と娘を見つめた後、ふっと憑き物が落ちたように長い息を吐き出した。

「そうか……。そうであったな。金塗りの冠など、走る銀の龍に比べれば、あまりにも小さく、重すぎる呪縛に過ぎぬか」


 老皇帝は立ち上がり、ハルトとアステリアの前に歩み寄った。

「よかろう。本日をもって、アルカディア帝国は専制君主制を廃止する。各都市の代表による議会を創設し、立憲共和制へと国家体制を移行させよう。そして――」

 老皇帝は一枚の白金で裏打ちされた条約書を取り出し、ハルトへと手渡した。


「アルカディア鉄道を、いかなる国家権力からも独立した『大陸恒久超国家インフラ機関』として承認する。帝国内全域における無条件の路線敷設権、駅周辺の治外法権、そして運行の自由を永久に保証しよう。……これが、老いたわしが未来へ遺せる、最後の遺言じゃ」


「謹んでお受けいたします、フリードリヒ前皇帝閣下」

 ハルトはその条約書を両手で受け取り、深々と一礼した。

「この鉄路が続く限り、貴方が望んだ平和と繁栄は、一秒たりとも遅延することなく運ばれ続けることを誓いましょう」


 謁見の間の大きなステンドグラスから、温かな夕陽が差し込み、二人の制服を黄金色に染め上げていた。

 一人の傲慢な支配者が去り、血塗られた戦争の時代は終焉を迎えた。

 一本のレールが、大陸の歴史を不可逆の新たな時代へと押し進めたのであった。

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