第64話:第一皇子の敗走と崩壊
大平原を支配していたのは、耳が痛くなるほどの静寂であった。
先ほどまで天を揺るがしていた重低音も、大地を焦がしていた赤黒い熱線も、すべてが嘘のように消え去っていた。
立ち上る光の粒子が初夏の陽光に溶けていくなか、帝国軍十万の将兵たちは、手にしていた槍や魔導銃を握る力すら失い、茫然と立ち尽くしていた。
信じがたい光景だった。
大帝国が数百年かけて秘匿し、絶対無敵の神話と称えられていた古代決戦兵器『虚無の巨神』が、たった一撃で、跡形もなく蒸発したのだ。
平原を貫く二本の銀のレール。
その上に鎮座する長大な連結魔導列車は、焦げ跡一つ残さず、静かに冷却用の白い蒸気を噴き上げている。
圧倒的な技術格差。
それは軍事力という名の暴力の差ではなく、世界を捉える『文明の次元』の差であった。
「う……うそだ……こんなことが……あってたまるかぁぁっ!」
沈黙を破ったのは、指揮戦車の上で膝から崩れ落ちていた第一皇子ヴァルハイトの、引き裂かれたような悲鳴であった。
その顔面は蒼白を通り越して土気色となり、豪奢な金糸の軍服は煤と泥にまみれていた。
かつて帝都の玉座の前で、冷笑を浮かべながらアステリアを辺境へと追放した傲慢な皇子の面影は、そこには微塵も残っていなかった。
「退け! 全軍、退却だぁぁっ! 帝都へ戻るぞ! 戦車を回せ、早くしろォッ!」
ヴァルハイトは足元の操縦士の背中を軍靴で狂ったように蹴り飛ばした。
だが、操縦士の手は震え、重魔導戦車のクローラーは空回りするばかりだった。
逃げ道など、最初から存在しなかったのだ。
「――無駄ですよ、兄上」
拡声魔法陣を通じて、透き通った凛々しい声が平原に響き渡った。
創世号の先頭車両から、タラップが音もなく降りてくる。
そこに姿を現したのは、純白の制服に身を包んだハルト・クゼ。そして、その後ろに寄り添うように歩む、皇女アステリアであった。
風に揺れる金糸の髪。強い光を宿した緋色の瞳。
泥まみれの辺境へ追放されたかつての少女は、今や大陸全土の希望を背負う、誇り高き指導者としての威厳を放っていた。
「ア、アステリア……! お前、生きているはずが……! なぜだ、なぜお前のような役立たずが、これほどの力を手に入れている!?」
ヴァルハイトは指揮戦車の甲板から転がり落ちるように地面へ這い蹲り、泥に手を突いたまま妹を睨み上げた。
「私を殺す気か!? 私は帝国の正統なる第一皇子だぞ! 皇帝陛下の血を引く最高位の継承者だ! 無礼な真似をすれば、帝国全土がお前たちを許さんぞ!」
「兄上、貴方はまだ理解できないのですか」
アステリアは静かに首を振った。その瞳には、かつて恐れていた兄への怯えも、復讐の憎悪もなかった。
ただ、あるのは深い哀憐だけであった。
「貴方が見下し、踏みにじり、収奪の対象としか見ていなかった民たちの手で、この鉄路は敷かれたのです。貴方が役立たずと切り捨てたドワーフが鉄を鍛え、エルフが森の知恵を授け、そして――貴方が戦場へ使い捨ての駒として送り出した兵士たちが、自らの誇りを取り戻すためにレールを繋いだのです」
「な……何を言っている……!?」
ヴァルハイトが狼狽えて周囲を見回した。
いつの間にか、彼を取り囲んでいたのは、アルカディア鉄道の保線作業員たちであった。
油と汗に塗れた青い作業着。手には魔導レンチや測量杭。
そして、その先頭に立っていたのは、かつて帝国軍の勇者として祭り上げられていたアーノルド・フォン・レオンハルトであった。
「……アーノルド!? 貴様、なぜそこにいる! あの役立たずどもを皆殺しにしろと命じたはずだ!」
「役立たずなのは、アンタのその腐った頭のほうだぜ、ヴァルハイト殿下」
アーノルドは肩に担いだ大型魔導レンチを地面にドスンと下ろし、冷ややかな視線で元雇い主を見下ろした。
「俺はもう、アンタのくだらない見栄のために剣を振るう勇者じゃねえ。このアルカディア鉄道の安全運行を守る、一介の保線員だ。……アンタが散々ゴミのように扱った元兵士たちが、今どんな顔で線路を直してるか、よく見てみやがれ」
ヴァルハイトの視線の先には、帝国軍の正規兵たちが、次々と武器を捨てて地面に平伏する姿があった。
彼らは戦う気力を失ったのではない。
目の前に現れた温かい食事の配給車、そして「怪我人はこちらの救護列車へ!」と手際よく誘導する聖女エレナたちの姿に、涙を流して感謝していたのだ。
十万の軍勢は、戦う前にすでにアルカディア鉄道の圧倒的な『補給と人道』によって解体されていたのである。
「ば、化け物め……貴様ら全員、反逆者だ……! 父上! 皇帝陛下が私を見捨てるはずがない!」
「皇帝陛下からの全権委任状は、すでに我が手元にあります」
ハルト・クゼが一歩前へ進み出た。
胸元から取り出したのは、帝国の最高機密紋章が刻まれた白金の親書であった。
「ヴァルハイト・フォン・アルカディア。貴殿は独断で禁呪兵器を起動し、帝国の民と領土を危機に陥れた。さらに、皇族としての義務を放棄し、国家の秩序を著しく乱した反逆者として、本日十三時五十分をもって身柄を拘束する」
ハルトは感情を交えずに、事務的な声で宣告した。
「我がアルカディア鉄道は、治外法権を有する独立特区機関として、貴殿の身柄を保護し、しかるべき査問委員会へと引き渡す」
「ハ、ハルト・クゼ……! 貴様のような名もなき平民が、この私に命令するなぁぁっ!」
ヴァルハイトが腰のサーベルを抜こうと手を伸ばした瞬間――。
ガシッ!
アーノルドの頑強な手が、ヴァルハイトの手首を万力のように締め上げた。
「動くんじゃねえよ。ダイヤグラムが乱れるだろ」
アーノルドの冷徹な一言とともに、サーベルが泥の中へと弾き飛ばされた。
保線員たちによって手際よく手錠をかけられ、泥まみれで引きずられていく第一皇子。
その背中を見つめながら、十万の帝国兵たちから歓声とも安堵のため息ともつかないざわめきが広がっていった。
帝国の傲慢な軍閥支配は、銃声ではなく、一本のレールと正確なダイヤグラムの前に、完全に崩壊したのである。
アステリアは深く息を吐き、静かに空を見上げた。
雲ひとつない青空の下、初夏の風が平原の草花を揺らしていた。
「ハルト様……本当に、終わったのですね」
「いいえ、アステリア様」
ハルトは懐中時計を見つめ、いつもの落ち着いた表情で首を横に振った。
「ここからが、鉄道員にとって最も重要な仕事です。――定時運行を再開するための、線路のクリーンアップが待っています」




