第57話:第一皇子ヴァルハイトの狂気
神聖ルクセンベルク帝国の帝都――白亜の宮殿の天蓋が、紅蓮の炎と黒煙によって黒々と染め上げられていた。
豪奢な大理石の回廊には、主戦派の親衛隊によって斬り伏せられた近衛兵たちの遺体が転がり、宮殿の中庭には、重装甲の魔導戦車が何十台も地鳴りを上げて集結していた。
軍事クーデター。
暗黒海峡において、帝国の威信を懸けた最新鋭空挺魔導艦隊が、アルカディア鉄道の防空迎撃列車によってわずか十分で全滅させられたという敗報。
その凶報がもたらされた瞬間、第一皇子ヴァルハイトの理性のタガは完全に焼き切れていた。
「……退くなどあり得ん。妥協など論外だ」
玉座の間。
病床から無理やり引きずり出され、白銀の寝台ごと玉座の前に置かれていた老皇帝フリードリヒ四世を見下ろし、ヴァルハイトは血塗られた軍刀を床に突き立てた。
「父帝よ、貴様の生温い弱腰外交が、あのような辺境の泥棒鉄道を増長させたのだ。帝国が築き上げてきた三百年の覇権を、たかが追放された荷物持ちの平民風情に譲り渡すなど、朕が許すと思うたか!」
「ヴァ、ヴァルハイト……やめよ……!」
病で痩せこけたフリードリヒ四世が、震える手を伸ばして息子の軍服を掴もうとした。
「あやつらの鉄道は、世界を……民の命を支える血流じゃ……。力で奪おうとすれば、この国そのものが滅ぶぞ……!」
「黙れ老いぼれが! 国家の命運を決めるのは、血流などという生温いものではない。圧倒的な『武力』と『恐怖』だ!」
バシィッ! とヴァルハイトは父の手を無慈悲に払い除けた。
「皇帝フリードリヒ四世は重病につき、これより国政の全権を朕――第一皇子ヴァルハイトが摂政として代行する! 近衛兵、この老いぼれを北方の氷牢へ幽閉せよ! 逆らう貴族は、一族郎党すべて反逆罪として首を撥ねろ!」
絶叫とともに下された狂気の親征令。
帝都を牛耳る主戦派の門閥貴族や軍高官たちは、恐怖に震えながらヴァルハイトの足元に平伏した。
だが、男の狂気はそれだけに留まらなかった。
帝立魔導工廠の地下深く、初代皇帝の遺訓によって「決して開けてはならない」と封印されていた禁忌の玄室。
その扉を魔導爆薬で吹き飛ばし、ヴァルハイトが引きずり出したのは、太古の神殺し兵器であった。
――ズズズズズズズズズズッ……!!
帝都の全街区を揺るがす、禍々しい地鳴り。
工廠の巨大な防壁を突き破り、黒々とした煙の中から姿を現したのは、全長五十メートルを超える四脚の古代自律重起動兵器――『虚無の巨神』であった。
神話の時代、大地の龍脈を根こそぎ食い尽くし、都市を焦土に変えたとされる生体魔導兵器。
その頭部に据え付けられた巨大な単眼が、血のように赤い魔力光を脈動させ、周囲の建造物を一瞥するだけで、石造りの建物が黒い灰へと分解されていく。
背中には、山をも蒸発させる『古代重力熱線砲』が据え付けられていた。
「はははは! 見よ、この圧倒的な破壊の化身を!」
ヴァルハイトは巨神の足元で狂気じみた哄笑を上げた。
「我が帝国中央総軍、全軍十万! 歩兵八万、装甲騎兵一万、魔導戦車五百台、そしてこの虚無の巨神を以て、反逆都市アルカディアを地表から完全に消滅させる! 平民どもに、真の支配者が誰であるかをその血で教えてやるのだ!」
――そのおぞましい光景は、創世号の運転指令室のホログラムスクリーンにも、王都商業連合理事長カルディの命がけの緊急通信によって映し出されていた。
『ハ、ハルト総裁! アステリア副総裁! 帝都から十万の軍勢が、オラクルを経由してアルカディア平原へ向けて進軍を開始しました! 到着まで、あと半日もありません! 逃げてください、あんな巨神と十万の軍勢に、たかが一都市の力で勝てるはずがありません!』
カルディの悲痛な叫びとともに、通信が激しいノイズで途絶えた。
十万の帝国軍、そして古代の破壊兵器。
一国の全軍事力を挙げた、狂気の全面殲滅戦であった。
「……お父様を幽閉し、禁呪兵器まで解き放つなんて……!」
アステリアが拳を強く握りしめ、悔しさに瞳を潤ませた。
だが、その隣に立つハルトの横顔には、一切の動揺も、恐怖の影すら存在しなかった。
青年は懐中時計の銀の蓋を開け、正確無比な時を刻む秒針を見つめた。
カチ、カチ、カチ……。
「敵の進軍速度、兵站路の補給限界、そして巨神の魔力消費量……すべて計算通りです。彼らは十万の大軍であれば無敵だと信じている。だが、近代インフラを理解しない十万の軍勢など、ただの巨大な『渋滞』に過ぎない」
ハルトの氷のように澄み切った声が、コックピットを満たした。
「アステリア副総裁。アルカディア中央駅へ全速力で帰還します。直ちに『最終防衛ダイヤグラム』を策定し、全路線の全車両を戦闘配置に就かせます」
「はい、ハルト様!」
アステリアは力強く頷いた。
恐怖は消え去っていた。この男の隣にいる限り、どんな巨大な絶望であっても、必ず一本の光のレールによって切り拓かれると確信していたからだ。
「バロック親方、ミュウ車掌。アルカディア鉄道のすべてのレール、すべての車両、すべての工夫を結集します。――私たちの愛する街と、人々の未来を、一ミリたりとも踏み荒らさせてはならない」
「応よッ! 相手が十万だろうが化け物だろうが、俺たちの線路の上で好き勝手やらせるかよ!」
「ミュウも全速力で切符を切るニャ! 不法侵入者の十万の大軍、定刻通りに鉄槌で吹き飛ばすニャ!」
フォォォォォォォォォンッ!
創世号の恒久魔導炉が神々しい汽笛を轟かせ、純白の巨躯は海上のレールを時速四百キロの神速で反転した。
世界の命運を賭けた、大陸最大の決戦の幕が、いま切って落とされようとしていた。




