第55話:アステリアの鍵、解錠
静寂に包まれた海底第零工廠。
海底下五百メートルの絶対の静けさの中、大理石のプラットホームに響くのは、アステリアの革靴が石畳を踏みしめる澄んだ足音だけであった。
背後には、息を詰めて見守るハルト、ミュウ、そしてバロック。
アステリアは、中央に据え付けられた黒檀の台座の前で足を止めた。
その台座の天面、青紫色の燐光を脈打たせる十字型の鍵穴が、彼女を待っていた。
「……お母様」
アステリアは両手で包み込んでいた真鍮の鍵ペンダントを、ゆっくりと持ち上げた。
指先が微かに震えていたのは、恐怖からではなかった。
幼き日に離宮で病に倒れた母の冷たい手、その温もり、そして託された重い願いのすべてが、いまこの瞬間に収束していることへの、魂の震えであった。
『アステリア、この鍵は星の心臓と繋がる、神代の銀河の車輪を目覚めさせる鍵なのよ。いつか、大地を愛し、命の道を誠実に敷くことができる本物の技術者が現れた時……この鍵を使いなさい』
母の言葉が、耳の奥で優しく木霊した。
アステリアは振り返り、数歩後ろに立つハルトの瞳を見つめた。
青年は何も言わず、ただ静かに、だが揺るぎない絶対の信頼を込めて頷き返した。
迷いは完全に消え去った。
アステリアは前を向き、鍵の先端を台座の鍵穴へと真っ直ぐに差し込んだ。
カチリ……。
完璧な精度で噛み合う金属の澄んだ音。
そしてアステリアは、時計回りに鍵をゆっくりと九十度、回した。
キィィィィィィィィン……ッッッ!!
その瞬間、台座の中心から、直視できないほどの純白とエメラルドグリーンの光の奔流が天へと噴き上がった。
光の粒子はドームの天井まで届く柱となり、台座の表面から四方八方へと、無数の古代魔導回路が血管のように床を伝って広がっていく。
アステリアの全身が淡い燐光に包まれ、彼女の白銀の髪がふわりと宙に浮き上がった。
『――生体認証シークエンス、開始』
工廠全体に響き渡ったのは、透き通るような女性の電子合成音声であった。
『DNAコード照合……神聖ルクセンベルク皇統、第十四皇女アステリア。正統継承権を確認。
続いて、副管理者登録……魔導軌道敷設スキル保有者、ハルト・クゼ。最高運行技術者権限を認証。
――全セーフティロック、解除。マスターキー・アクセプト』
パリンッ! パリンッ! パリンッ!
澄み渡るクリスタルの破壊音が連続して響き渡った。
巨大な創世号を取り囲んでいた七重の複合封印結界が、光の破片となって次々と砕け散り、プラットホームへと光の雪のように降り注いだのだ。
と同時に、暗闇に沈んでいた海底ドックの全設備が一斉に覚醒した。
巨大なクレーンが唸りを上げ、壁面を覆う数千基の魔導メーターが青白い針を躍動させ、床下の冷却水路に清らかな海水が勢いよく流れ込む。
「うにゃああああっ! ドック全体が、生き返ったニャ!」
「す、すげえ……! 何万年も前の工場が、新品同様に動き出しやがった!」
ミュウとバロックが感嘆の声を上げる中、ハルトの視線は、プラットホームの正面に浮かび上がった巨大な立体ホログラムスクリーンへと釘付けになっていた。
そこに映し出されたのは、数万年前の古代超文明の記録映像であった。
スクリーンに映る、かつての豊かな惑星の姿。
緑に覆われた大地を、無数の銀の列車が縦横無尽に疾走していた。
だが、次の瞬間、大地の奥底から紫色の禍々しい瘴気が噴き上がり、大地が裂け、都市が崩壊していく光景が映し出された。
『……記録コード、最終ログ』
女性の声が、悲痛な響きを帯びて語りかけた。
『かつて我ら古代人は、便利さと豊かさを追求するあまり、星の龍脈から過剰にエネルギーを吸い上げ、循環を忘れた。
その結果、大地の血流は澱み、「龍脈の血栓」が限界を迎えて自爆した。
これを人々は「大崩壊」と呼び、現れた瘴気の怪物を「魔王」と呼んで恐怖した。
だが、真の病巣は外にあるのではない。
星の血管が詰まり、呼吸を失ったことこそが、すべての破滅の始まりであった』
「龍脈の……血栓……!」
ハルトの脳裏に、すべてのピースが完璧に噛み合った。
伏線B――古代文明崩壊の真実。
魔王の侵略などではなかった。
人間が大地から奪うばかりで、血液としての魔力を循環させなかった結果、惑星そのものが心筋梗塞を起こしたのだ。
『我が遺産、創世号は、兵器ではない。
大地の龍脈を走行エネルギーで整流し、星の心臓へと清らかなマナを送り届けるための「移動型人工心臓」である。
この車輪を目覚めさせし者よ。
どうか、全大陸に鉄路を敷き、分断された星の命を再び一つに繋ぎ合わせてほしい――』
ホログラムが静かに消え去った。
静まり返った工廠の中、ハルトはアステリアの隣へと歩み寄り、その肩にそっと手を置いた。
「アステリア様。お母様が残してくれたのは、世界を滅ぼす兵器などではありませんでした」
「……はい、ハルト様」
アステリアの瞳から、安堵と誇りの涙が溢れ出た。
母は正しかった。
争うためではなく、世界を救うために、この鍵を託してくれたのだ。
ゴオオオオオオオオオオッ……!
ドックの中央で、純白の巨躯――超次元軌道超特急『創世号』の巨大な恒久魔導炉が、数万年の眠りから完全に目を覚まし、大気を震わせる力強い鼓動を鳴り響かせ始めた。




