第50話:保線員アーノルドの奮闘
海面から高さ四十メートル。
吹き抜ける強烈な潮風が、作業用の仮設足場の鉄パイプをビシビシと激しく揺らしていた。
足元を覗き込めば、格子状の足場板の隙間から、白く泡立つ暗黒海峡の怒涛が渦を巻き、落ちれば命はない。
その高所恐怖症で足が竦むような極限の現場で、一人の男が、一本の安全帯を鉄骨に掛け、歯を食いしばりながら巨大なレンチを回していた。
「ぐ……ぬぬぬぬっ……! よし、トルク規定値……締結完了!」
カチリ、と鈍い金属音が響く。
額から流れる脂汗を腕でゴシゴシと拭ったのは、灰色のツナギ作業着に身を包んだアーノルド・フォン・レオンハルトであった。
首にはめられた魔導追尾首輪が、潮風を浴びて冷たく首筋に張り付いている。
だが、その男の顔には、かつて王都で人々を見下していた傲慢さも、スラム街で泥水をすすっていた卑屈さも、一片の欠片すら残っていなかった。
作業着の袖を捲り上げた両腕には、硬く引き締まった筋肉が浮き上がり、手のひらは幾重もの分厚いタコと黒い油汚れで覆われている。
かつて聖剣を振るうことしか知らなかった男は、いま、海上の高架橋梁で最も過酷な「高所リベット打ち」と「レール締結作業」を一手に引き受けていた。
「おい、アーノルド! 次のトラス梁を吊り上げるぞ! ガイドロープを引け!」
「おうよ、任せとけ!」
上空からクレーンで吊り降ろされてくる数トンの鉄骨。
風に煽られて大きく揺れるその巨躯を、アーノルドは足場に踏ん張り、全身の全体重をかけてガイドロープを引き絞った。
ズザザザッ!
手のひらに激痛が走り、古いマメが潰れて血が滲む。
だが男は歯を剥き出しにして唸り声を上げ、鉄骨のボルト穴を、橋脚側のジョイント金具へと寸分の狂いもなくピタリと誘導した。
ガシャァァァンッ!
「位置決め完了! ボルトを叩き込めぇぇっ!」
「よし、ドンピシャだ! いい腕になったじゃねえか、アーノルドの坊主!」
ドワーフのベテラン保線工夫が、ヘルメット越しに白い歯を見せて親指を立てた。
最初は「王都から島流しに遭ってきた落ちぶれ勇者」と冷笑し、遠巻きに見ていたドワーフたちであったが、誰よりも早く現場に入り、誰よりも危険な高所作業を進んで引き受けるアーノルドの姿を見て、いつしか彼を対等な「現場の相棒」として認め始めていたのだ。
カンッ、カンッ、カンッ――!
続いて、橋桁の上に枕木が敷かれ、バラスト石が敷き詰められていく。
そこへ、手押し式の重量トロッコを押しながら、息を切らして駆け寄ってきたのは、ガイルであった。
「ぜぇ……はぁ……! レール締結用の特殊ミスリルボルト、二百本持ってきました! 次の枕木束も、クレーン基地から順次手配完了してます!」
「でかしたぞガイル! さっさと並べろ、潮が満ちてくる前にこの径間を締め切るぞ!」
「了解です、親方!」
かつてペンより重いものを持てないと泣き叫んでいた元宮廷魔導士の姿は、そこにはなかった。
泥と油にまみれながらも、ガイルの足取りは力強く、現場の資材管理と運搬をテキパキと仕切っていた。
魔法が使えなくとも、正確な計算力と資材の流れを把握する頭脳は、突貫工事の現場において貴重な戦力となっていたのだ。
――そして、橋脚の袂に設置された仮設の救護・給水テント。
そこでは、白いエプロンを身にまとったエレナが、汗だくになって立ち働いていた。
「はい、お疲れ様です! 冷たい麦茶に少し塩を入れてありますから、喉が渇く前に飲んでくださいね! あ、そこのドワーフさん、腕に鉄骨で擦り傷ができています! 消毒しますから、腕を出してください!」
エレナは素早く消毒薬を浸した布を当て、清潔な包帯を手際よく巻き上げていく。
かつて高慢に男たちを顎で使っていた偽聖女は、いまや現場の数百人の工夫たちの体調を一人で支える、頼もしい衛生係となっていた。
彼女の丁寧で優しい手当てと、疲れを吹き飛ばす明るい笑顔は、過酷な現場の男たちにとって何よりの癒しとなっていた。
「へへ、ありがとうよ、エレナの姉ちゃん。姉ちゃんの手当ては、王都のどんな高名な医者よりも丁寧で痛まねえよ」
「ふふ、お世辞でも嬉しいわ。さあ、怪我をしないように気をつけて行ってらっしゃい!」
工夫を笑顔で見送ったエレナは、ふと、海の上へ向かって伸びる銀のレールを見上げた。
足場の上で、声を掛け合いながら鉄骨を組むアーノルドとガイルの逞しい背中。
かつて迷宮でハルトを罵倒し、互いに醜い足の引っ張り合いをしていた頃の自分たちが、まるで遠い過去の悪夢のように思えた。
(私たち……生きてる。本当に、人の役に立って、胸を張って生きてる……)
胸の奥からこみ上げてくる、温かい熱。
誰かの犠牲の上に胡座をかくのではなく、自分の手と足で他者の命を支えることの喜び。
ハルトが毎日こなしていた「雑用」の真の尊さを、三人はこの吹き荒れる暗黒海峡の海上で、魂の底から学び取っていた。
ポーン、パーン、ポーン……。
やがて西の空が茜色に染まり、夕暮れの作業終了を告げる合図の鐘が鳴り響いた。
「よし、本日の架設工事、全工程完了! 本日の進捗、予定より五十メートル延伸だ!」
「「「うおおおおおおおおっ!!」」」
歓声が海の上に木霊した。
片付けを終えたアーノルド、ガイル、エレナの三人は、完成したばかりのトラス橋の端に腰を下ろし、海を渡る夜風に吹かれていた。
エレナが竹皮の包みを開き、炊き出しの大きなおにぎりを二人に手渡す。
「はい、二人ともお疲れ様。今日のおにぎりは、オラクル産のシャケが入ってるわよ」
「うおおっ、シャケか! 最高じゃねえか!」
アーノルドは真っ黒に汚れた手でおにぎりを掴み、豪快にかぶりついた。
ふっくらとした白米の甘みと、塩の効いたシャケの旨味が、疲弊しきった身体の隅々へと染み渡っていく。
「うめえ……! 死ぬほど美味いな……!」
「ああ……現場で流した汗の分だけ、飯が美味いってのは本当なんだな」
ガイルも涙ぐみながらおにぎりを頬張った。
「なあ、アーノルド」
エレナが海峡の彼方、夕陽に照らされて銀色に輝くレールを見つめながら呟いた。
「俺たちが組んだこの鉄骨の上を……いつか、ハルトたちの列車が走るのよね」
「……ああ、走るさ」
アーノルドは力強く頷き、遠くアルカディアの街がある西の空を見つめた。
「何千人もの乗客を乗せて、時速百キロで風のように駆け抜けていくんだ。俺たちの敷いた道が、世界を繋ぐんだよ。……そのためなら、腕の一本や二本、擦りむいたって安いもんさ」
泥まみれの作業着を着た元勇者の横顔には、かつてどんな輝かしい白銀の鎧を身にまとっていた時よりも、気高く、誇らしい光が宿っていた。
彼らはもう、追放された無様な罪人ではない。
未来を拓く鉄路の礎を築く、真の鉄道マンたちであった。




