第44話:清掃員アーノルドの敬礼
独立宣言から数週間が経過した、晩秋の朝。
アルカディア中央駅の一番線ホームには、早朝から息を呑むような緊張感と熱気が満ちていた。
線路上に据え付けられていたのは、バロック工房とハルトが共同開発した最新鋭の大陸横断超特急――『オーロラ号』であった。
白銀の流線型車体は、鏡のように周囲の景色を映し出し、屋根の上には古代魔導集電装置が淡い青光を宿している。
本日より、オラクルからアルカディア、黒鉄山脈、翡翠の樹海を一周する全線直通ダイヤが正式に運行を開始するのだ。
ホームには、華やかなドレスや軍服をまとった来賓たちが集い、吹奏楽団が勇壮なファンファーレを響かせている。
だが、その華やかな式典の輪から少し離れた、ホームの端――柱の影に、一人の男が静かに佇んでいた。
泥と洗剤で色褪せた、灰色のツナギ作業着。
腰には雑巾とゴム手袋をぶら下げ、右脇には使い古されて毛先が丸くなったモップがしっかりと抱えられている。
首には、依然として黒い鉄の『魔導追尾首輪』がはめられていた。
アーノルド・フォン・レオンハルトであった。
だが、現在の彼の姿には、かつて王都で人々を嘲笑っていたあの下品な傲慢さも、スラム街で泥水をすすっていた時の浅ましい卑屈さも、どこにもなかった。
毎日十四時間に及ぶ過酷な清掃労働。
他人の吐瀉物を拭き、吸い殻を拾い、泥を洗い流し続けた日々の中で、男の身体からは贅肉が完全に削ぎ落とされていた。
手のひらは硬いタコとマメで覆われ、厚く逞しい労働者の手へと変わっている。
何より、その瞳には、泥酔と虚栄に濁っていたかつての光ではなく、地道に大地を踏みしめて生きる者だけが持つ、澄み切った静けさが宿っていた。
「……アーノルド」
背後から、控えめな声がかけられた。
振り返ると、そこには同じ灰色の作業着を着て、ピカピカに磨き上げられた木桶とタワシを抱えたエレナが立っていた。
髪は後ろで一本に束ねられ、化粧気のない素顔には薄っすらと健康的な赤みが差している。
かつて男たちに媚びを売ることしか知らなかった偽聖女の面影はなく、その立ち姿は凛としていた。
「一番ホームの公衆便所、鏡も床も全部磨き終わったわ。悪臭チェックも完璧よ」
「ああ、ご苦労存じます。……こっちも一番線から三番線まで、バラストの飛び石一つ残さず拾い集めた」
「ふふ、ガイルのやつも、山から戻ってきて保線用具の整備をしてるわ。『俺の敷いたレールをオーロラ号が走るんだ』って、泥だらけの顔で笑ってたわよ」
二人の間に流れる会話には、かつてのような足の引っ張り合いや罵り合いは微塵も存在しなかった。
他者の労働に寄生するのではなく、自らの汗と筋肉によって、一杯の白米と温かい寝床を勝ち取る生活。
それは過酷ではあったが、虚飾に塗れていたかつての日々よりも、遥かに心が満たされていた。
自分たちが毎日床を磨き、便所を洗い、石を運ぶことで、何万人もの人々が安全に列車に乗り、笑顔で旅立っていく。
その光景を見るたびに、かつて「無能な雑用」と切り捨てていた労働の尊さが、骨の髄まで染み渡るのを感じていた。
パッ、パッ、パッ……。
その時、ホームの絨毯を踏みしめる靴音が近づいてきた。
周囲の歓声が一際大きくなる。
現れたのは、紺色の正装に身を包んだハルトと、その隣を歩くアステリア副総裁であった。
出発前の最終線路点検のため、二人は一番ホームの先端へと向かって歩いていた。
エレナが思わず息を呑み、壁際へと身を寄せようとする。
だが、アーノルドは逃げなかった。
男は抱えていたモップをカチリと左手に持ち替え、柱の影から一歩前に踏み出した。
かつて迷宮でハルトを罵倒した自分。
王都のスラムで泥水をすすり、貨車に潜り込んで捕まった自分。
その過去のすべての醜悪さを引き受けた上で、男は胸を張り、背筋を伸ばした。
バシッ!!
踵を鋭く打ち鳴らし、背筋を真っ直ぐに伸ばして、右手を右眉の横へとピタリと掲げた。
直立不動。
一切の揺らぎもない、完璧な鉄道マンの敬礼であった。
「――ハルト総裁!」
アーノルドの腹の底から、澄み渡るような張りのある大声が響き渡った。
周囲の来賓たちが驚いて視線を向ける。
だが、アーノルドは誰の視線も気に留めることなく、真っ直ぐにハルトの瞳を見据えて叫んだ。
「一番ホームプラットホーム足元、ならびに軌道侵入防止柵、清掃点検完了!
レール上の異物ゼロ! 足元の泥および障害物、一切なし!
オーロラ号出発ダイヤグラム……異常なしでありますッ!!」
その声には、かつての勇者の驕りなど欠片もなかった。
あるのはただ、何千人もの乗客の命を足元から支え、一秒の遅延も許さぬインフラを背負う、一人の清掃員としての純粋な誇りであった。
ハルトは足を止めた。
アステリアも、傍らに控えるミュウも立ち止まり、直立不動で敬礼を続ける元勇者を見つめた。
かつて自分をダンジョンの奥底に置き去りにし、「無能」と嘲笑った男。
その男が今、血豆だらけの手でモップを握り、自分の敷いた鉄路の安全を直立不動で報告している。
ハルトは無言のまま、数秒間、アーノルドの顔をじっと見つめた。
その瞳には、かつての軽蔑も憐憫もなかった。
ただ、同じ鉄路を支える現場の仲間を見る、真摯な眼差し。
スッ……。
ハルトは静かに右手を上げ、アーノルドに向けて、寸分の狂いもない答礼を返した。
「――ご苦労様、アーノルド清掃員。足元の安全を、引き続き頼みます」
青年の静かな、だが確固たる信頼の込められた一言。
ハルトはそれ以上何も言わず、再び前を向き、颯爽と一番列車の運転席へと歩み去っていった。
「っ……!」
敬礼の手を下ろしたアーノルドの頬を、一筋の熱い涙が伝い落ちた。
許されたのではない。
首の首輪は依然として外れていないし、犯した罪が消えたわけでもない。
だが、見捨てられもしなかった。
一人の労働者として、この巨大な車輪を回す歯車の一つとして、確かに存在を認められたのだ。
「……異常なし、か。へっ……悪くねえ響きだな」
アーノルドは袖で涙を拭い、泥のついたモップを力強く握り直した。
ボロボロの作業着を着た男の横顔は、かつて白銀の鎧を着ていた頃よりも、遥かに男らしく、気高く輝いていた。
ポーン、パーン、ポーン……!
発車を告げる澄んだ鐘の音が、コンコース全体に鳴り響いた。
プシューーーーーッ!
排気弁から白い蒸気が勢いよく吹き上がり、ガコンと巨大な連結器が噛み合う。
フォォォォォォォォンッ!!
オーロラ号の汽笛が青空を突き抜け、白銀の巨躯が滑らかに動き出した。
時速三十キロ、五十キロ、八十キロ――加速する列車が巻き起こす風が、アーノルドの作業着の裾を激しく揺らす。
アーノルドはモップを構え、遠ざかっていく車輪の軌跡を、魂を込めた敬礼で見送り続けた。
隣ではエレナが手を振り、作業服の胸元を熱く濡らしていた。
完全なる因果応報の果てに掴み取った、これが彼らの真の生きる道であった。




