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第40話:便所掃除の聖女

鼻を突くツンとした刺激臭と、漂白用の木酢液の強い薬草の匂い。

 アルカディア中央駅の地下通路脇に設置された、巨大な公衆便所のタイル張りの床に、一人の女がへたり込んでいた。

 かつて『王都の至宝』『奇跡の聖女』と讃えられ、純白のドレスと黄金の装飾品で身を包んでいたエレナ・フォン・シルフィードであった。


 現在の彼女がまとっているのは、泥と石鹸水で色褪せた灰色のツナギ作業着。

 手には、使い古されて毛先がすり減った硬い椰子のタワシと、赤くひび割れた皮膚を覆う安物の厚手のゴム手袋。

 足元には、汚水で満たされた木桶が置かれ、目の前には、朝の通勤ラッシュで無数の乗客が利用したばかりの、黄色い尿石のこびりついた陶器製の便器が口を開けていた。


「う……ううっ……! 嫌……嫌よぉぉっ……! なんで私が、こんな汚い便所を素手で擦らなきゃいけないのよぉっ!」


 エレナは悲鳴を上げ、握りしめていたタワシを床へと投げ捨てた。

 便器の内側にこびりついた汚れを見るだけで、胃液が喉元までせり上がってくる。

 自分は神に選ばれ、人々を癒すために生まれてきた聖女なのだ。

 王都の神殿では、跪いた信徒たちが足元に花びらを撒き、貴族たちが競い合うように宝石を捧げてきた。

 それが今や、名もなき平民やドワーフ、獣人たちが排泄した後の便器を、膝をついて磨いている。

 これ以上の屈辱が、この世のどこにあると言うのか。


「こんなの、やってられないわ! 私は聖女よ! 治癒魔法が使えるのよ! なんでこんな下賎な仕事を――」


 バシィィィィンッ!!


 乾いた平手打ちが、エレナの頬を容赦なく張り飛ばした。


「きゃあっ!?」


 エレナは濡れたタイルの床に横倒しになり、木桶の汚水がバシャリと背中に跳ねかかった。

 見上げると、そこには腰に重い皮のエプロンを締め、腕まくりをした小柄な女性ドワーフが仁王立ちしていた。

 アルカディア駅衛生管理主任――ガルド婆さんである。


「下賎な仕事だと!? 寝言抜かしてんじゃないよ、このアマ!」


 ガルド婆さんの怒声が、便所の狭い空間に雷鳴のように轟いた。

 その皺だらけの顔には、半世紀以上にわたってインフラの衛生を守り続けてきた職人としての、圧倒的な誇りと怒りが燃え盛っていた。


「便所を誰が磨いてると思ってんだ! ここが一日でも放置されりゃあ、悪臭とウジが湧き、疫病が発生して街中の人間が死に絶えるんだよ! 病気を治すのが聖女の仕事だぁ? 笑わせるんじゃないよ! 病気を出さないために、他人の汚物を一手に引き受けて洗い流すのが、あたしたち衛生係の誇りだ! 命の最前線を侮る奴に、誰かを救う資格なんざ一欠片もありゃしないよ!」

「っ……! だ、だけど……!」

「サボる気かい? いいよ、今すぐその首輪のスイッチを押して、地下牢へ放り込んでやる! あんたの代わりなんていくらでもいるんだからね!」


 ガルド婆さんが腰の魔導コントローラーに手をかけた瞬間、首の鉄輪がチリチリと青い燐光を放った。

 痛みが喉を締め上げる。


「ひ、ひぃぃっ! やめて! 磨きます! 磨きますからぁぁっ!」


 エレナは涙と鼻水を垂らしながら、投げ捨てたタワシを拾い集め、震える手で便器の内側へと突っ込んだ。

 ゴシゴシ、ゴシゴシ――!

 手首が痛い。腰が折れそうに痛い。

 陶器にこびりついた頑固な尿石は、全体重をかけて擦らなければびくともしない。

 汗が額から流れ落ち、目に入って激痛が走る。


 だが、その激痛と悪臭の中で、エレナの脳裏に、かつての光景が鮮烈に蘇っていた。


『ちょっとハルト! 野営地の簡易トイレ、臭うじゃないの! 私のテントの近くに置かないでって言ったでしょ!』

『すみません、風向きを計算してすぐに移動させます。消毒用の灰も撒いておきますね』

『当たり前よ! さっさと片付けなさい、雑用のくせに気が利かないわね!』


 あの日々。

 どんなに危険な迷宮であっても、どんなに過酷な荒野であっても、自分たちの野営地は常に清潔に保たれていた。

 エレナが朝起きる頃には、汚物はすべて穴に埋められて石灰で消毒され、手洗い用の清らかな水と清潔なタオルが用意されていた。

 自分はそれを「当たり前のこと」だと思い込んでいた。

 ハルトが毎晩、全員が眠りについた後、一人で汚水や排泄物の処理を黙々とこなしていたことなど、想像すらしていなかったのだ。


「う……ううっ……! ハルト……私……私……!」


 涙がボロボロと溢れ、便器の中に落ちていく。

 自分がどれほど残酷で、無知で、傲慢な寄生虫だったのか。

 他人が泥をかぶって支えてくれていた日常の上に胡座をかき、その支え手を「無能」と嘲笑って追い出したのだ。

 罰だ。

 これは、神が自分に下した、あまりにも当然の天罰なのだ。


「ごめんなさい……ハルト……ごめんなさい……!」


 エレナは嗚咽しながら、一心不乱にタワシを動かし続けた。

 黄ばんでいた陶器が、削り落とされ、やがて純白の輝きを取り戻していく。

 二十基の便器をすべて磨き終えた時、時計の針は正午を指していた。


 カラン、コロン……。

 構内に、昼の休憩を告げる鐘の音が響いた。


「ふん、やればできるじゃないか」


 見回りに来たガルド婆さんが、ピカピカに磨かれた便器を見て短く頷いた。

 そして、手元の木箱から、粗末な木のお盆を取り出して差し出した。


「ほら、昼飯だよ。しっかり食いな」

「……え?」


 お盆の上に載っていたのは、驚くほど質素な食事であった。

 丸い木椀に盛られた、一合の白いご飯。

 具の入っていない、茶色の味噌汁。

 そして、小皿に載った二切れの黄色い大根の漬物。

 かつて王都の聖女として、毎食のように最高級の肉や魚、焼き立てのクロワッサンを贅沢に残していたエレナからすれば、豚の餌とすら呼べないような粗末な献立であった。


 だが。

 早朝から六時間ぶっ続けで肉体労働をこなし、胃袋がペシャンコに張り付いていたエレナにとって、その椀から立ち上る白い湯気は、神の奇跡よりも神々しく見えた。

 ゴム手袋を脱ぎ捨て、泥で汚れた素手でお椀を包み込む。

 じんわりと手のひらに伝わる、温かい温もり。

 芳醇な大豆の発酵した香りが、鼻腔をくすぐる。


「あ……あ……っ」


 エレナは震える手でお椀を口元に運び、味噌汁を一口すすった。


 ズズッ……。


 その瞬間、出汁の濃厚な旨味と、塩気の効いた味噌の温かさが、乾ききった身体の隅々へと染み渡っていった。

 温かい。

 信じられないほど、美味い。


「な……なにこれ……!? 具も入ってないのに……なんでこんなに美味しいの……!?」


 エレナは木椀を抱え込み、炊きたての白米を口いっぱいに掻き込んだ。

 一粒一粒がふっくらと炊き上げられた米の甘みが、舌の上で弾ける。

 噛み締めるたびに、涙が滝のように溢れ出した。


「おいしい……っ! おいしいよぉぉぉっ! うあああああっ、ご飯が……温かいご飯が、こんなに美味しいなんて……っ!!」


 エレナは便所の隅のタイルの床に座り込み、しゃくりあげながら泣いた。

 労働の後の飯が、これほどまでに尊いものだとは知らなかった。

 飢えを知り、労働の苦しみを知り、そして一杯の温かい食事のありがたみを知った。

 かつての傲慢な偽聖女の殻が、涙とともに完全に剥がれ落ちていく。

 泥まみれの便所の床で、元聖女は生まれて初めて、一人の「人間」としての一歩を踏み出していた。

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