第39話:モップを握る聖剣の勇者
午前六時零分。
アルカディア中央駅の巨大なコンコースには、すでに朝の活気が満ちあふれていた。
天井を覆う巨大なガラスドームから降り注ぐ澄み切った朝の光の中、通勤の市民、荷物を抱えた商人、色鮮やかな衣装を着た旅人たちが、規則正しく響く発車ベルの澄んだ調べとともにホームへ向かって足早に行き交っている。
塵一つ落ちていない滑らかな大理石の床。
その美しさを維持するために、一人の男が、膝をついて床にへばりついていた。
「くそっ……! なんで……なんで俺がこんなことを……!」
灰色の薄汚れたツナギ作業着に身を包んだアーノルドは、脂汗を垂らしながらモップの柄を握りしめていた。
かつて神から授かったと豪語していた、眩い白銀の聖剣。
その代わりに男の両手に握られているのは、使い古されて毛先が黒ずんだ雑巾モップと、濁った汚水が波打つブリキのバケツであった。
首にはめられた魔導首輪が、冷たい鉄の感触とともに喉元を圧迫し、微弱な電流のパルスが男の神経を常に苛んでいる。
「おい、新入り! 手が止まってるぞ! 六時十五分の特急が到着する前に、三番ホームの足元を鏡のように磨き上げろ!」
背後から怒声を浴びせてきたのは、筋骨隆々とした初老の清掃主任であった。
元帝国軍の下士官であるその男は、かつて勇者だったアーノルドの素性など一切気に留める風もなく、容赦なく竹箒の柄でアーノルドの尻を小突いた。
「返事はどうした! 『はい、直ちに!』だろ!」
「ひ、ひぃっ……! は、はい! 直ちに磨きます!」
アーノルドは反射的に直立し、情けない裏返った声を上げた。
逆らえば首輪から高圧電流が流れ、昼飯の白米が抜きになる。
その恐怖が、かつて傲慢の塊だった男の身体に、完全な条件反射として叩き込まれていた。
アーノルドは再び膝をつき、必死にモップを前後に動かし始めた。
ギシギシと腰が軋む。
たった一時間床を拭き続けただけで、背中の筋肉は鉛のように重くなり、手のひらの皮が擦り剥けて血が滲んでいた。
かつて剣を振るうことしか知らなかった男の筋肉は、地道な屈伸運動と拭き掃除の負荷にまるで耐えられなかったのだ。
全身の関節が悲鳴を上げ、膝の皮膚が擦れて激痛が走る。
「う……うぷっ……」
ホームのベンチの脇に近づいた瞬間、強烈な酸っぱい悪臭がアーノルドの鼻腔を直撃した。
昨晩の最終列車で酔っ払った乗客が残していった、生々しい吐瀉物の塊であった。
ドロリとした汚物が、冷え固まって石畳にこびりついている。
「汚ねえ……! こんなもん、触れるわけねえだろ……!」
アーノルドは胃液が逆流しそうになり、口元を押さえて後ずさりした。
かつてパーティにいた頃、アーノルドは魔獣の返り血が鎧に一滴ついただけで「汚らわしい!」と激怒し、ハルトに「今すぐ磨け、無能が!」と怒鳴りつけていた。
だが今、自分の前にあるのは他人の吐瀉物だ。
誰も代わりに片付けてはくれない。
放置すれば、歩いてくる乗客が滑って転倒し、大怪我をするかもしれないのだ。
『かつて貴方たちは、私の労働をただの雑用と嘲笑った。今度は貴方たちが、その雑用がいかに過酷かを骨の髄まで学びなさい』
ハルトの冷徹な言葉が、耳の奥で鮮烈にフラッシュバックした。
あの時、迷宮の奥底で、泥まみれになりながらモンスターの汚物や血糊を黙々と洗い落としていたハルトの姿。
嫌な顔一つせず、自分たちが清潔な装備で戦えるように、夜を徹して汚れを拭き取っていた青年の背中。
あれは、誰にでもできる簡単な作業などでは断じてなかった。
他者への献身と、強靭な精神力がなければ一分たりとも耐えられない、過酷極まりない尊い労働だったのだ。
「う……ううっ……! ごめんなさい……ハルト、ごめんなさいぃぃっ……!」
アーノルドは涙と鼻水を垂らしながら、素手で雑巾を絞り、吐瀉物へと押し当てた。
指先に伝わるぬめり、立ち上る悪臭。
吐き気と戦いながら、男は必死に床を擦り続けた。
磨いても磨いても、汚れは次から次へとやってくる。だが、汚れを拭き取った後の石畳が朝日にピカピカと輝いた瞬間、男の胸に、かつて魔獣を倒した時にも味わったことのない奇妙な達成感が微かに芽生えていた。
プシューーーーーッ!!
その時、鋭いブレーキ音とともに、王都発の特急列車『白銀号』がホームへと滑り込んできた。
ドアが開き、仕立ての良い服を着た王都の裕福な貴族や商人たちが、次々とプラットホームへと降り立ってくる。
アーノルドは咄嗟に顔を伏せ、壁際に小さくなってやり過ごそうとした。
だが――運命はあまりにも残酷であった。
「……ん? おい、見ろよ、あそこの清掃員」
「どうしたんだい、伯爵?」
「あの男の顔……どこかで見たことがあると思ったら……おい、まさか『聖剣の勇者』アーノルドじゃないか!?」
雷鳴のような声が、ホームに響き渡った。
足を止めたのは、王都の貴族たちであった。かつてアーノルドがSランクだった頃、宮殿の夜会でアーノルドに擦り寄り、大金を貢いでいた男たちである。
「げっ……ほ、本当だ! あの金の髪、間違いなくアーノルドだぞ!」
「ぎゃはははは! おいおい、天下の勇者様が、アルカディアの駅でモップを持って他人のゲロ掃除をしてるぜ!」
「おいアーノルド! 聖剣はどうしたんだよ!? 今度はモップでドラゴンでも退治する気配かい!?」
乗客たちが一斉に足を止め、アーノルドを取り囲んで嘲笑の輪を作った。
人々の好奇の視線と嘲笑の礫は、刃物よりも鋭く男の全身を切り刻んだ。
かつて自分を神のように崇めていた者たちが、いまや自分を汚物を見るような目で見下ろし、指を差して笑い転げている。
「や、やめろ……見るな……! 見るなぁぁっ!」
アーノルドは両手で顔を覆い、しゃがみ込んだ。
だが、冷酷な現実から逃げることはできなかった。
貴族の一人が、磨き抜かれた革靴の爪先で、アーノルドのバケツをコツンと蹴った。
「おい、掃除係。俺の靴に汚水が跳ねただろうが。弁償しろとは言わんから、今すぐそのモップで俺の靴底の泥を綺麗に拭き取れよ。ほら、勇者サマの華麗な剣技でさ!」
「……っっっ!!」
殺してやる。
喉元まで出かかった怒りの炎。
だが、首の首輪がジジジと青い火花を散らし、皮膚をチリチリと焼いた。
逆らえば死ぬ。
ここで暴れれば、即座に憲兵に射殺される。
そして何より――いま靴を汚しているのは、他でもない自分自身の不注意なのだという事実が、男の喉元を塞いだ。
アーノルドの震える両手が、ゆっくりと床へと伸びた。
かつて王都で、万民から崇められ、傲慢の限りを尽くしていた男が。
いま、見知らぬ貴族の靴の前に額を擦り付け、震える声で雑巾を差し出した。
「も……申し訳……ございません……。ただいま……足元を……お拭きいたします……」
床に擦り付けた顔から、涙がボロボロと石畳に落ちていく。
かつて自分がハルトに強いていた屈辱。
他者を見下し、踏みにじっていた報いが、寸分の狂いもなく、自分自身の頭上に降り注いでいた。
モップを握る元勇者に、もはやかつての栄光の面影は微塵も残されていなかった。
だが、その男の背中は、かつての偽りの勇者であった時よりも、確かに地に足のついた「生」の重みを背負い始めていた。




