第38話:契約――清掃員アーノルド
ミュウの手によって後ろ手の縄が解かれた瞬間、三人は床に崩れ落ち、鬱血して紫色に変色した手首をさすりながら荒い息を吐いた。
だが、安堵の表情を浮かべる暇など一秒たりとも与えられなかった。
大理石の床に広げられた羊皮紙――『懲罰的更生雇用契約書』。
その前に立ったハルトが、冷徹な調子で契約条項を一条ずつ読み上げ始めたからだ。
「契約条項を読み上げます。聞き漏らしのないように。一度署名すれば、いかなる抗弁も認められません」
ハルトの声は、法廷の死刑宣告官のように平坦で、慈悲の欠片もなかった。
「第一条――職種および配置。
アーノルド・フォン・レオンハルト。貴方の役職は『駅構内最下級清掃員』とします。主な任務は、早朝から深夜に至るプラットホームおよびコンコースの床磨き、乗客の吐瀉物およびゴミの回収、ならびに灰皿の清掃です」
「な……と、吐瀉物の処理……!?」
アーノルドの顔が引きつる。かつて魔獣の返り血すら嫌悪し、「汚らわしい」とハルトに鎧を磨かせていた男に、他人の吐瀉物を片付けろと言うのだ。
だが、ハルトは一瞥もくれずに続けた。
「第二条――エレナ・フォン・シルフィード。貴方の役職は『駅構内公衆便所衛生維持係』。任務は中央駅および貨物ターミナルに設置された全二十箇所の公衆便所の洗浄、便器の尿石落とし、ならびに汚水溝の泥さらいです」
「べ……便所掃除……!? 私が、便所掃除ですって……!?」
エレナが悲鳴のような声を上げる。王都の聖女として、常に最高級の薔薇の香水を漂わせていた女にとって、それは死以上の屈辱であった。
「第三条――ガイル・フォン・ハイネ。貴方の役職は『深夜軌道バラスト石運搬補助員』。ドワーフ保線区の指揮下に入り、深夜の線路下に敷き詰める砕石を一輪車で運搬する肉体労働に従事してもらいます」
「ひ、一輪車で石運び……!? 俺は魔導士だぞ! ペンより重いものを持ったことすらないんだ!」
「貴方の脆弱な筋肉では、それくらいしか使い道がありません」
ハルトの容赦ない一刀両断に、ガイルは言葉を失った。
「第四条――勤務時間。午前五時始発列車の点呼から、午後九時終電後の点検終了まで。実働十四時間。ダイヤグラムの厳守を絶対とし、一秒の遅刻も許されません。無断欠勤は即座に契約破棄、軍法会議への移送とします」
「じ、十四時間労働……!?」
アーノルドの喉がカラカラに渇き、脂汗が吹き出した。
かつてパーティにいた頃、彼らは一日三時間も戦えば「疲れた」「今日はここまでだ」とハルトに荷物を押し付け、酒場で豪遊していたのだ。その男たちに、毎日十四時間の連続肉体労働を課すという。
「第五条――給与および債務弁済。
日当は銀貨二枚を支給します。ただし――」
ハルトは書類の数字をペン先で叩いた。
「貴方たちの無賃乗車による損害賠償金、不法侵入に伴う軌道点検費用、さらには王都の闇金業者から貴方たちの身柄を買い取った債権肩代わり金――総額、金貨百五十枚。この全額が完済されるまで、支給される給与は全額返済に充当されます。したがって、現金の手取りは『ゼロ』です」
「ぜ……ゼロ……!? タダ働きってことかよ!?」
「誰がタダ働きと言いましたか? 三食の現物支給を行います。毎食、炊きたての白米一合と、具なしの味噌汁、ならびに漬物一杯を支給します。おかわりは不可。寝床は地下資材倉庫の一角、藁布団を提供します」
「そ、それだけ……? 肉は!? 肉料理食べ放題って求人票に書いてあったじゃないか!」
「あれは一般の正規採用職員向けの福利厚生です。犯罪者である貴方たちに適用される道理がありません。命を繋ぐ最低限のカロリーが保証されるだけでも、感謝しなさい」
ハルトの徹底した論理に、アーノルドはぐうの音も出なかった。
そしてハルトは、足元に三つの黒い鉄の輪を置いた。
カチリ、と鈍い金属音が響く。
「第六条――保安規定。逃亡防止のため、首に『魔導追尾首輪』を装着してもらいます。アルカディア駅の敷地から無断で一歩でも外に出た場合、または職員に暴力を振るおうとした場合、首輪から致死量一歩手前の高圧電流が自動的に流れます」
「ひぃぃぃっ……!!」
三人は首筋を押さえ、後ずさりした。
それは完全に、罪人を縛る手枷足枷であった。
人間としての自由など、そこには一切存在しない。
だが――。
「サインをしなくても構いませんよ」
ハルトは冷たい目で三人を見下ろした。
「今すぐこの部屋を出て、憲兵の銃口の前に立ちますか? それとも南方の鉱山で、有毒ガスを吸いながら三ヶ月で死にますか?」
「っっっ……!!」
選択肢など、最初から存在しなかったのだ。
死ぬか、屈辱にまみれて生きるか。
アーノルドは唇を血が出るほど噛み締め、震える手で羽根ペンを握りしめた。
「か……書く……! 書けばいいんだろ……ッ!!」
アーノルドは床に突っ伏し、契約書の署名欄に乱暴に自分の名前を殴り書きした。
続いて、エレナが涙をボロボロとこぼしながらペンを奪い取り、震える文字で署名した。
ガイルもまた、鼻水を垂らしながら血判を押す。
「よし。契約は成立しました」
ハルトが書類を回収すると、ミュウが素早い動きで三人の首に鉄の首輪をパチンとはめ込んだ。
カチャリ!
首筋に食い込む冷たい鉄の感触。
古代魔導のルーンが淡く赤く発光し、皮膚に焼き付くような圧迫感が首を包み込んだ。
かつて栄光のSランクパーティ『白銀の流星』は、名実ともに消滅した。
彼らはいま、アルカディア鉄道の最下級清掃員へと転落したのだ。
「ミュウ車掌、地下資材庫へ案内し、作業着を支給しなさい。六時零分の始業点呼に一秒でも遅れたら、本日の朝食は抜きです」
「了解ニャ! ほら、ノロマな掃除係ども、さっさと歩くニャ!」
ミュウに追い立てられ、三人は足をもつれさせながら総裁室を後にした。
薄暗い地下通路を抜け、案内された地下倉庫の片隅には、湿った冷たい藁の山と、粗末な灰色のツナギ作業着が三着、無造作に放り出されていた。
胸元には、黒いインクで無慈悲に印字された文字――『アルカディア鉄道・更生作業員』。
「う……うう……こんなゴワゴワした服……肌が擦れて痛いわ……」
エレナが泣きじゃくりながら着替える。
「石運びだなんて……俺の手指がボロボロになっちまう……」
ガイルが震える指を見つめて絶望に打ちひしがれる。
アーノルドは、作業着の袖に腕を通しながら、地下の冷たい土壁に拳を叩きつけた。
「くそっ……! くそがあああああっ……!」
だが、どれほど悔しがろうとも、壁の魔導時計の針は無情にも五時五十分を指していた。
遅れれば飯が抜かれ、首輪から電流が流れる。
かつてハルトが毎日こなしていた、終わりのない、誰も褒めてくれない「雑用」の世界。
その過酷な底なし沼へと、元勇者たちは自らの足で足を踏み入れざるを得なかったのである。




