第37話:土下座の勇者
「アステリア副総裁」
ハルトの静かな声が、凍りついた総裁室に響いた。
「はい、ハルト」
「憲兵隊を呼んでください。侵入者三名を身柄拘束し、直ちに辺境防衛軍の軍法会議へ引き渡します。罪状から見て、銃殺刑か、あるいは南方の有毒鉱山への終身流刑が妥当でしょう」
「かしこまりました。すぐに憲兵司令部へ通報の魔導通信を繋ぎます」
アステリアが優雅な仕草で机の上の真鍮製の呼び鈴に手を伸ばした、その瞬間であった。
「ま……待ってくれええええええええええっッ!!」
鼓膜を引き裂くような、獣の断末魔のような絶叫が部屋中に響き渡った。
アーノルドであった。
男の顔から、かつての栄光も、虚勢も、プライドも、一片の欠片すら残らず吹き飛んでいた。
瞳孔は恐怖で極限まで開き、鼻水と涎が煤まみれの口元からダラダラと垂れ流されている。
死ぬ。
本気で殺される。
ハルトは脅しで言っているのではない。
この男は、かつて迷宮でモンスターの出現予測や補給の配分を秒単位で冷徹に計算していた時と全く同じ、完璧に私情を排除した無機質な目で自分たちを見ているのだ。
害虫を駆除するように、書類に判を一つ押すだけで、自分たちの命など簡単にゴミ箱へと放り込める絶対的な権力。
それを肌で理解した瞬間、アーノルドの膝は完全に砕け散っていた。
ドガァァァァンッ!!
激しい鈍音が、純白の大理石の床に鳴り響いた。
アーノルドが、後ろ手に縛られたまま、立った状態から自ら頭から床へとダイブしたのだ。
「ぐふっ……! ハルト! ハルト様ぁぁぁっ! 頼む、頼むから命だけは助けてくれぇぇぇぇっ!!」
ゴンッ! ゴンッ! ゴンッ!
アーノルドは狂ったように額を大理石の床に叩きつけ続けた。
純白の石畳に、真っ赤な血がじわりと滲み出し、煤と混ざり合って黒赤色のグロテスクな染みを作っていく。
だが男は痛みに顔を歪めるどころか、涙と鼻水を撒き散らしながら、床に額を擦り付けて号泣した。
「俺が悪かった! 俺が全部悪かったんだよぉぉぉっ! お前を追放したのも、荷物を奪ったのも、全部俺の浅ましい嫉妬だった! お前がいなきゃ何もできないクズだったのは、俺の方だったんだぁぁっ!」
「アーノルド……!」
ガイルが息を呑むが、アーノルドの土下座は止まらない。
額の皮膚が裂け、頭蓋骨に響くような激しい音が部屋中に反響する。
「俺は豚だ! 人間の皮を被った恥知らずな寄生虫だ! 靴でも舐める! お前の足でも、その床の泥でも全部舐めるから! だから殺さないでくれ! 鉱山に送らないでくれ! パンを……一口でいいから、温かいパンを恵んでくれええええっ!!」
床に血染めの額を押し当て、全身をガタガタと震わせて咽び泣く元最強の勇者。
そのあまりの無様さに、アステリアもミュウも、嫌悪を通り越して呆れ果てた視線を向けていた。
だが、崩壊したのはアーノルドだけではなかった。
「わ、私も……! 私も謝るわ、ハルト様ぁぁっ!」
エレナが泥まみれの膝で這い進み、アーノルドの隣で床に頭を擦り付けた。
かつて男たちを侍らせ、世界一の美女であるかのように振る舞っていた聖女が、今や鼻水を垂らし、額を床に擦り付けて泣き叫んでいる。
「ごめんなさい! 生意気な口を利いてごめんなさい! あなたを無能呼ばわりした私こそが、本当の無能だったの! 何でも言うことを聞くわ! 奴隷にしてくれてもいい、あなたの愛人にしてくれてもいいから! お願いだからご飯をちょうだい! 飢え死にしたくないのよぉぉぉっ!!」
「お、俺もだぁぁぁっ!」
ガイルもまた、床に顔を埋めて絶叫した。
「宮廷魔導士なんて嘘っぱちだ! 俺はただのペテン師の穀潰しだ! ハルト様の偉大さに比べれば、俺の魔術なんて屁の役にも立たないゴミ屑です! 命だけは……命だけはお助けくださいぃぃっ!」
三人が三人とも、床に額を擦り付け、血と泥と涙で大理石を汚しながら許しを乞う阿鼻叫喚の地獄絵図。
かつて迷宮の最深部で、ハルトを冷たく見下ろし、「お前のような役立たずはいらないんだよ」「雑用の分際で調子に乗るな」と嘲笑っていた者たちの、これが成れの果てであった。
因果応報。
己の放った傲慢の矢が、何倍もの質量となって己の喉元へと突き刺さっていた。
「……見苦しいですね」
アステリアが、氷のように冷たい声で吐き捨てた。
かつて帝国の王都で、この者たちがどれほど威張り散らし、他者を踏み躙っていたかを思い返せば、同情の余地など欠片も存在しなかった。
「ハルト様。こんな者たちの命を助ける理由などありません。このまま憲兵に引き渡し、法に基づいた厳罰を下すべきです」
「うにゃ! ミュウも大賛成ニャ! こんなドロボウたちを生かしておいたら、鉄道の神聖な空気が汚れちゃうニャ!」
二人の宣告に、アーノルドたちは「ひぃぃぃっ!」「お助けぇぇっ!」とさらに激しく床に頭を打ち付け、部屋中に生々しい打撃音が響き渡る。
額の皮膚は完全に破れ、純白の大理石には三人の血溜まりが黒々と広がっていた。
その惨状を、ハルトはただ静かに腕を組み、冷ややかな瞳で見下ろしていた。
処刑することは簡単だ。
憲兵に一言命じれば、数分後にはこの三人は壁際に並べられ、銃殺されて露と消えるだろう。
だが――。
(殺すことなど、何の意味もない)
ハルトの脳裏に去来したのは、私的な憎悪でも復讐心でもなかった。
あるのはただ、インフラ管理者としての極めて冷徹で合理的な計算であった。
(この者たちの命を奪ったところで、鉄道が受けた損害は一銭も回収できない。無賃乗車の運賃、不法侵入による設備の緊急点検費用、そしてこれまで彼らが他者から奪い取ってきた労働の対価――それら全てを、己の肉体と汗によって一滴残らず弁済させることこそが、真の公正だ)
ハルトはゆっくりと息を吐き、机の引き出しから一枚の羊皮紙を取り出した。
「……顔を上げなさい」
ハルトの静かな一言に、三人はビクリと震え、血と涙でぐしゃぐしゃになった顔を恐る恐る上げた。
ハルトはその書類を、大理石の床へと放り投げた。
パサリと三人の目の前に落ちたその紙には、黒々とした文字でこう書かれていた。
『――アルカディア鉄道:懲罰的更生雇用契約書』
「貴方たちに、最後の選択肢を与えます」
ハルトは指先を組み、冷徹な青い瞳で三人の魂を射抜いた。
「即座に憲兵に引き渡され、軍法会議で銃殺刑となるか。それとも――この契約書に署名し、アルカディア鉄道の最底辺の清掃員として、己の犯した罪を労働によって生涯かけて償うか。選びなさい」
その言葉を聞いた瞬間、アーノルドの目に縋り付くような光が宿った。
「しょ、署名します! 何でもします! 働きます、働かせてくださいぃぃっ!」
「私も! 私も書きます! 何でも洗います、床でも何でも磨きますからぁっ!」
「命さえ助かるなら、俺は一生ハルト様の犬になりますぅぅっ!」
三人は縛られた手を芋虫のように蠢かせ、床の契約書に我先にと群がった。
そこにある条件がどれほど過酷なものであろうとも、彼らにとっては死の淵から垂らされた一本の蜘蛛の糸であった。
かつて最強を誇った勇者たちの誇りは完全に地に堕ち、いま、絶対の支配者ハルトの足元に永遠の服従を誓うこととなったのである。




