第36話:再会――天と地の落差
アルカディア中央駅の最上階――地上百メートルに位置する総裁室。
天井まで届く三面強化ガラスの窓からは、早朝の陽光を浴びて四方八方へと伸びる銀の鉄路と、整然と区画された美しい近代都市のパノラマが一望できた。
部屋の中央には、黒檀の重厚な執務机。
その机の向こうで、完璧にプレスされた紺色の総裁服に身を包んだ青年――ハルト・クゼが、静かに万年筆を走らせていた。
机の脇には、副総裁のアステリアが立ち、手元の日報に目を通している。
二人の間には、何十万人もの人々の生活と物流を司る者たちだけが放つ、凛とした静謐な威厳が漂っていた。
バタンッ!
重厚な防音扉が開き、チーフ車掌のミュウが威勢よく入室してきた。
「ハルト総裁、アステリア副総裁! 早朝の不法侵入者および無賃乗車犯三名、連行いたしましたニャ!」
ミュウが引く一本の強化ロープ。
その先に数珠つなぎにされ、ズルズルと部屋の中に引きずり込まれてきたのは――。
全身が石炭の煤で真っ黒に汚れ、悪臭と泥にまみれた、この世の終わりのような形相の三つの塊であった。
「ぐえっ……!」「痛い、引っ張らないでぇ!」「ゲホッ、ゴホッ……!」
床に転がり落ちた三人は、磨き抜かれた純白の大理石の床に、黒々とした煤と汚水の染みを容赦なく塗り広げた。
アステリアは小さく眉をひそめ、冷徹な視線を足元へと落とす。
「ミュウ、ご苦労様でした。……それにしても、酷い有様ですね。まるで下水溝から這い出してきたドブネズミのようです」
「うにゃ! 石炭ホッパ車に潜り込んで密航してきた不届き者たちニャ! 駅の敷石を汚した罪も加算したいところニャ!」
その言葉に、床に這いつくばっていた男が、ビクンと肩を跳ね上げた。
アーノルドである。
麻痺電撃の後遺症で手足をピクピクと痙攣させながらも、彼は必死に首をもたげ、部屋の奥に座るハルトを見上げた。
「ハ……ハルト……!?」
信じられないものを見るように、アーノルドの白目が剥き出しになった。
かつて泥だらけのボロ布をまとい、重い荷物を背負って自分たちの後ろをビクビクとついてきていた、あの無能な雑用係。
それが今、宮殿の玉座をも凌ぐ豪奢な執務室で、王侯貴族すら傅くような絶対の気品をまとって腰掛けている。
机の隣には、かつて王都で高嶺の花と囁かれていた皇女アステリアが、慈愛と信頼に満ちた眼差しでハルトに寄り添っていた。
天と地。
月とすっぽん。
かつての主従関係が、完全に、残酷なまでに逆転していた。
「ハ、ハルトぉ……! 本当にハルトなの……!?」
エレナもまた、煤だらけの顔を上げて叫んだ。
かつての美しい面影など微塵もない、髪を振り乱した女の姿。
だが、ハルトの視線は書類からピクリとも動かなかった。
サラサラと、万年筆が羊皮紙の上を滑る乾いた音だけが、静かな部屋に響き続ける。
「お、おいハルト! 聞こえねえのかよ!」
アーノルドは床に膝をつき、必死に胸を張って虚勢を振り絞った。
ここで怯んだら終わりだという本能的な恐怖が、男に浅ましい虚勢を叫ばせていた。
「俺だ! 歴代最強の勇者、アーノルド様だぞ! お前の昔のリーダーだ! おい、その縄を解け! この生意気な獣人のガキに命令して、今すぐ俺たちをもてなさせろ!」
「……」
「おい! 無視するな! お前、俺たちが来てやって嬉しくねえのか!? 元Sランクパーティ『白銀の流星』が、わざわざ王都からお前のために駆けつけてやったんだぞ! お前のような戦えない無能には、俺たちのような一流の護衛が必要不可欠だろ!?」
アーノルドの唾を飛ばすような怒声。
隣でガイルも、煤けた顔で卑屈な笑みを浮かべながら身を乗り出した。
「そ、そうだぞハルト! 昔の些細な喧嘩は水に流してやろうじゃないか! 俺の至高の宮廷魔術があれば、この鉄道の防衛など百人力だ! だから早く、あの求人票に書いてあった美味い肉と白米を腹一杯食わせろ! 金貨も前払いで百枚寄越せ!」
「ハルトぉ……! 私よ、あなたの愛したエレナよ!」
エレナが床を這い進み、ハルトの机の足元へと縋り付こうとした。
「私、悪かったわ……! あなたを追い出したりして、本当にごめんなさい! だから許して! 昔みたいに優しくして! 温かいお風呂に入れて、綺麗な服を着せて……私を抱きしめてぇっ!」
浅ましい、あまりにも浅ましい懇願と恫喝の混ざり合った叫び。
だが、その醜悪な言葉の数々に対しても、ハルトの表情には怒りすら浮かばなかった。
嘲笑すら浮かばない。
あるのはただ、道路に落ちている石ころを見るような、完全なる『無関心』であった。
カチリ。
ハルトは万年筆にキャップをはめ、机の上に静かに置いた。
そして、ようやく冷徹な青い瞳を、足元で蠢く三つの汚物へと向けた。
「……五分間」
ハルトの口から漏れたのは、氷点下の風よりも冷たい一言だった。
「え……?」
「私の貴重な業務時間を、無駄な騒音によって五分間も遅延させた。――その罪は重い」
「な、なんだと……!? 俺たちの話を何一つ聞いてなかったのかよ!?」
アーノルドが絶叫する。
ハルトは立ち上がり、机の前の絨毯を踏みしめて歩み出た。
その足元には、煤で汚れた床のラインが引かれている。ハルトは汚れた床を一瞥し、ミュウへと視線を向けた。
「ミュウ車掌。報告書を読み上げてください」
「はいニャ!」
ミュウは胸を張り、手帳を開いて朗々と読み上げた。
「被疑者三名。氏名、アーノルド、ガイル、エレナ。罪状は以下の通りニャ!
一、オラクル貨物ターミナルへの不法侵入および施設破壊!
二、黒鉄第二〇八貨物列車への無賃乗車!
三、現行犯逮捕時における鉄道職員に対する公務執行妨害および暴行未遂!
四、構内における無許可の攻撃魔術使用未遂!
アルカディア自治領鉄道保安法に基づき、即座に極刑、または終身の強制労働刑に該当する重犯罪ニャ!」
「ひ、極刑……!? し、終身労働……!?」
ガイルが膝の関節をガクガクと震わせて崩れ落ちそうになり、エレナは悲鳴を上げて顔を覆った。
アーノルドの顔からも、完全に血の気が引いていた。
「は、ハルト……! 冗談だろ!? 俺たちは仲間だったじゃないか! 昔の仲間に向かって、そんな法律を持ち出す気か!?」
「仲間?」
ハルトは初めて、微かに口元を歪めた。
だがそれは笑みなどでは断じてなく、絶対の断絶を示す冷笑であった。
「私の記憶にあるのは、迷宮の奥底で荷物と装備をすべて奪い、私を『無能』と嘲笑って置き去りにした盗賊まがいの連中だけですが?」
「っ……! そ、それは……!」
「貴方たちにとって、他人の命や労働は使い捨ての道具だったのでしょう。だが、この鉄道において、法と規則は絶対です。不正を働き、他人の血と汗の結晶であるインフラに泥を塗る者を、私は決して許さない」
ハルトの威圧感が、総裁室の空気を押し潰すように膨れ上がった。
かつて迷宮で魔獣を圧倒していたどんな怪物よりも、目の前の元雑用係の放つ覇気は、圧倒的で、絶対的であった。
自分たちが逆らってはならない存在に、手を出してしまったのだと――。
三人の骨の髄まで、底知れぬ恐怖が叩き込まれた瞬間であった。




