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第33話:流れてきた一枚の求人票

泥水をすすり、他人の残飯を奪い合って命を繋ぐ――それが、かつて帝国最強と持て囃されたSランクパーティ『白銀の流星』の現在の日常であった。

 エレナが路地裏で物乞いをして持ち帰った、泥と涙にまみれた二枚の銅貨。

 それで買えたのは、カビの生えた黒パンの切れ端と、濁った安酒の小瓶ひとつだけであった。


「おい、もっと寄越せ! 俺が勇者なんだぞ! 一番多く食う権利がある!」

「ふざけるなアーノルド! このパンは私が頭を下げて稼いだ金で買ったのよ! あんたは一歩も外に出ないで、ただ酒を飲んで寝てただけじゃない!」

「うるせえ! 男を立てろ、この売女が!」


 三人は獣のように唸り声を上げ、カビの生えたパンの屑を奪い合って貪り食った。

 かつて一流の宿屋で贅を尽くしたフルコースを平らげ、「味が薄い」「ワインの年代が気に食わない」と給仕を怒鳴りつけていた面影は、どこにもなかった。

 だが、そんな惨めな泥沼の生活すら、長くは続かなかった。


 ドガァァァァンッ!!


 小屋の腐りかけた扉が、鉄の爪先で激しく蹴破られた。

 突如として乱入してきたのは、黒い革鎧に身を包み、腰に血塗られたサーベルを差した三人の大男たち――王都の闇街を牛耳る『黒犬金融』の取り立て屋であった。


「ぎゃははは! みすぼらしいネズミどもが、仲良くカビパンをかじってやがるぜ!」

「ひ、ひぃぃぃっ……!」


 エレナが悲鳴を上げて小屋の隅へと後ずさり、ガイルは青ざめて失禁寸前で震え上がった。

 リーダー格の傷だらけの大男が、ドスンと泥靴のまま小屋に踏み込み、アーノルドの薄汚れた金髪を乱暴に掴み上げた。


「ぐわっ……! な、何をしやがる、離せ!」

「おい、元勇者サマよぉ。待たせてくれたじゃねえか。今日が利子の返済期日だってこと、忘れたとは言わせねえぞ」

「ま、待ってくれ! 金なら今、工面しているところだ! 俺は選ばれし勇者なんだ、もう少し待てば貴族のパトロンが必ず――」


 ドゴォッ!


 重い鉄拳が、アーノルドの鳩尾に深々と突き刺さった。


「ぐふっ……!?」


 アーノルドは胃液を吐き散らしながら、床に崩れ落ちて激しく咳き込んだ。


「寝言はあの世で言え、クズが。貴様らの借金は、利子を含めて金貨五百枚だ。明日正午までに一括で耳を揃えて返せ。さもなくば――」

 大男は懐から、禍々しい鉄の首輪を取り出して見せつけた。


「南方の『死線硫黄鉱山』に売り飛ばしてやる。あそこへ送られた奴隷は、有毒ガスを吸って三ヶ月で肺が腐って死ぬのが相場だ。せいぜい明日まで、震えて過ごすんだな!」


 嘲笑とともに、取り立て屋たちは去っていった。

 静まり返った小屋の中に残されたのは、完全なる死の宣告であった。


「ご、五百枚……明日までに金貨五百枚なんて……絶対に無理よ……!」

 エレナが髪を掻きむしりながら狂乱の声を上げる。

「鉱山送り……!? 嫌だ、死にたくない! 魔法が使えない鉱山で、奴隷として死ぬなんてまっぴらだぁぁぁっ!」

 ガイルが床に頭を打ち付けて泣き叫ぶ。

 アーノルドもまた、泥に顔を押し当てたまま、絶望の底で歯を食いしばっていた。

 逃げ場はない。王都の城門には指名手配と借金の差し押さえ状が貼られ、一歩外に出れば衛兵か取り立て屋に捕まる。

 明日の正午、自分たちの人生は完全に終わるのだ。


 ヒュルルルル……。


 その時、隙間風が吹き抜け、壊れた窓から一枚の紙切れが舞い込んできた。

 パサリと、アーノルドの目の前の床に落ちたその紙。

 王都の大通りに貼り出されていたものが、風に乗ってスラムまで飛ばされてきたようだった。

 アーノルドは忌々しげにそれを払いのけようとしたが、紙の最上部に大書された、鮮烈な墨文字が目に飛び込んできた。


『アルカディア鉄道:保線作業員および構内清掃係、急募!』


「……あ?」


 アーノルドは、吸い寄せられるようにその紙を泥だらけの手で拾い上げた。

 そこには、現在の彼らにとって天国のような、信じがたい労働条件が並んでいた。


『経験・学歴・身元一切不問。初心者大歓迎』

『福利厚生:三食完全現物支給(炊きたて白米・温かい豚汁・肉料理食べ放題)』

『宿舎完備:清潔な個室寮、大浴場・魔導温水シャワーあり』

『作業着・安全靴完全無償貸与、日払い・前払い制度あり』

『勤務地:アルカディア中央駅構内および各沿線』


「な……なんだ、この求人は……!? 飯が……肉が食い放題……? 温かい風呂だと……!?」


 ガイルとエレナが、飢えたハイエナのように紙の周りに群がった。

 だが、彼らの目を釘付けにしたのは、その求人票の最下部に記されていた、発行責任者の名前であった。


『――アルカディア鉄道総裁:ハルト・クゼ』


「……っっっ!!」


 三人の呼吸が、一瞬にして止まった。

 ハルト。

 ハルト・クゼ。

 自分たちが「役立たずの荷物持ち」「無能」と罵り、ダンジョンの奥底に置き去りにして追放した、あのハルト。


「う、嘘でしょ……!? ハルトが……本当に、鉄道の総裁なの……!? じゃあ、さっきの林檎の話も……!」

 エレナが震える声で叫ぶ。

「あいつが……あんな雑用係のゴミが、なぜこんな巨大な組織のトップに立っているんだ!? 何かの間違いだろ!」

 ガイルが嫉妬と混乱で顔を歪める。


 だが、アーノルドの濁っていた瞳に、突如として異様な光が宿った。

 歪んだ、狂気じみた笑みが、痩せこけた男の口元にじわじわと広がっていく。


「……くく……くはははは! そうか……そういうことかよ!」

「ア、アーノルド……? 何を笑ってるのよ、気味が悪い!」

「おいエレナ、ガイル、よく考えろ! ハルトは誰だ? あいつは俺たちの下僕だった男だぞ!」


 アーノルドは立ち上がり、ボロ布を翻しながら唾を飛ばして叫んだ。


「あいつはいつも、俺の顔色を伺ってビクビクしてやがった! 俺が命令すれば、どんな無茶な荷物だって泣き言一つ言わずに運んだ忠犬だ! あいつが急に偉くなったからって、骨の髄まで染み付いた下僕の根性が治るはずがねえ!」

「……え?」

「ハルトの奴、本当は俺たちに追放されて寂しくてたまらねえんだよ! だからこんな求人票を出して、俺たちが来てくれるのを待ってるに決まってるじゃねえか!」


 あまりにも都合の良い、狂気じみた誇大妄想。

 だが、追いつめられた人間は、どれほど愚かな嘘であっても都合の良い希望に縋りつく。

 ガイルの目にも、浅ましい期待の光が灯り始めた。


「そ、そうか……! あいつは戦えない無能だから、鉄道の利権を手に入れたものの、自分を守る強力な戦力が欲しくてたまらないんだ! 俺たち元Sランクの三人が行ってやれば、『アーノルド様! ガイル様! 戻ってきてくださったんですね!』って涙を流して歓迎するに決まってる!」

「そうだ! アルカディアに着きさえすれば、あの山のような金も、美味い飯も、全部俺たちの思い通りだ! いずれあいつを脅して、鉄道の総裁の座を俺に譲らせてやる! そうすれば借金五百枚どころか、王都の貴族どもを顎で使ってやれるぞ!」


 アーノルドの言葉に、エレナもまた陶酔するように頬を染めた。

 かつてのように、ハルトが自分に傅き、温かい食事と綺麗なドレスを用意してくれる――そんな甘美な幻影に、女の脳は一瞬で支配されていた。


「行きましょう……アルカディアへ! ハルトのところへ行くのよ!」

「だが、どうやって行くんだ? 王都からオラクルを越えてアルカディアまで、馬車に乗る金すらないぞ」


 ガイルのもっともな指摘に、アーノルドは獰猛に口の端を吊り上げた。


「オラクルの操車場に、王都へ物資を運んできた『貨物列車』が停まっているはずだ。夜陰に乗じて、石炭の積載車に忍び込めばいい。ただの箱車だ、見張りなんざ適当にやり過ごせる。タダでアルカディアまで直行だ!」


 無賃乗車――密航。

 かつて栄光を誇った勇者と聖女と宮廷魔導士は、いまや盗賊同然の犯罪計画を前に、醜い欲望の炎を燃え上がらせていた。

 彼らは信じて疑っていなかった。

 自分たちが向かう先にあるのが、かつてのような甘美な栄華ではなく――。

 冷徹無比なる『ダイヤグラム』と『労働の鉄槌』が待ち受ける、完全なる因果応報の断頭台であるということを。

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