第32話:聖女エレナの物乞い
神聖ルクセンベルク帝国の帝都――かつてエレナ・フォン・シルフィードが、純白の聖女装束をまとって民衆の歓声を一身に浴びていた目抜き通り。
その華やかな大通りから一歩入った、日陰の石畳の路地裏に、一人の女がうずくまっていた。
頭から被った灰色のボロ布からは、かつて黄金の絹と讃えられた髪が、脂と埃で固まって乱雑に垂れ下がっている。
顔中にはわざと泥と煤を塗りたくり、かつての美貌を隠していた。
かつての知り合いに顔を見られる恐怖と、何よりも生きるための飢え――その二つの狭間で、エレナの心はすでに限界を超えて引き裂かれていた。
「……お、お願い……します……。誰か……お恵みを……一口のパンを……」
擦れた、小鳥の鳴き声よりも細い声。
エレナの震える両手には、ゴミ捨て場から拾ってきた欠けた木椀が握られていた。
聖女エレナが、物乞いをしている。
数ヶ月前の彼女であれば、想像しただけで卒倒したであろう屈辱の光景だった。
だが、二日間何も口にせず、胃袋が自身の粘膜を溶かすような激痛に襲われた時、高慢だった聖女のプライドなど一瞬で消し飛んでいた。
小屋に残ったアーノルドとガイルは、飢えと酒切れで凶暴化し、「金を恵んでもらってくるまで帰ってくるな」とエレナを路地へと蹴り出したのだ。
「誰か……神の御名において……哀れな者に慈悲を……」
道行く人々は、冷たい視線を一瞥だけ投げかけ、足早に通り過ぎていく。
スラムの物乞いなど、帝都では日常茶飯事の光景に過ぎない。
誰も、足元で丸まっている泥まみれの女が、かつて神殿の頂点に立ち、平民たちを「下賎な虫けら」と蔑んでいたあの聖女だとは気づきもしなかった。
冷たい秋風が路地を吹き抜け、薄い麻布の隙間から骨まで凍みる寒気が入り込む。
ガチガチと歯の根が合わず、エレナの全身は小刻みに震え続けた。
かつてハルトがパーティにいた頃は、寒さを感じることなど一度もなかった。
ハルトは常に気温の変化を予測し、エレナの体温が下がらないよう、魔法の保温石を仕込んだ防寒外套を差し出し、温かいハーブティーを水筒に用意してくれていた。
怪我をすれば即座に手当をしてくれ、野営地では清潔な毛布と柔らかい寝床を真っ先に整えてくれた。
(私……あの人を、なんて言っていじめていたんだっけ……?)
濁った記憶の底から、過去の自分の傲慢な声が蘇る。
『ちょっとハルト! このスープ、ぬるいわよ! 作り直しなさい!』
『荷物持ちの分際で、私と同じテントで寝ようなんて図々しいのよ! 外の地面で寝なさい!』
『戦えもしない無能のくせに、私たちの稼いだ報酬を分けるなんておこがましいわ! 追放よ、追放!』
吐き気がするほどの後悔が、エレナの胸を締め付けた。
ハルトがいなくなった瞬間、自分たちには何も残らなかった。
治癒魔法が使えたところで、自分自身の飢えを癒すことはできない。
聖なる祈りを捧げたところで、パンのひとかけらも天から降ってはこない。
ハルトが毎日こなしていた「雑用」こそが、文明であり、生命そのものだったのだ。
カラン……。
不意に、乾いた音が木椀の中で鳴り響いた。
エレナが恐る恐る顔を上げると、そこには質素な木綿の服を着た、町人の母親と小さな女の子が立っていた。
「ほら、お姉ちゃん。これを食べなさいな」
母親が差し出してくれたのは、銅貨二枚と――赤々と実った、握り拳ほどもある見事な完熟の林檎であった。
傷一つなく、蜜が透けて見えるほどの鮮度を誇るその果実は、甘く清々しい芳香を放っていた。
「あ……あ……っ」
エレナの喉から、言葉にならない掠れた声が漏れた。
平民の身なりをした親子が、これほど高価な果物を持っていること自体が、かつての常識ではあり得ないことであった。
「あ、あの……こんな立派な林檎……私のような者に……? 貴族の方への贈り物では……?」
「ふふ、何を言ってるのよ。今どき林檎なんて、大通りの中央市場へ行けば山のように安く売ってるわよ。ほら、西のオラクルから新しく開通したっていう『魔導鉄道』のおかげでね。朝採れたばかりの新鮮な果物が、毎日汽車でドカンと届くの。おかげで私たち平民でも、毎日お腹いっぱい果物が食べられるようになったのよ」
「え……? ま、魔導……鉄道……?」
あまりの衝撃に、エレナの唇が震えて言葉を失った。
母親は優しく微笑み、幼い娘の手を引いて歩き出した。
「神様のおかげじゃないわね。鉄道を造ってくれた、ハルト総裁っていう若い技術者の方のおかげよ。本当にありがたいわねぇ」
「うん! ハルトそうさい、だーいすき!」
親子の仲睦まじい声が、大通りの雑踏の中へと消えていく。
残されたエレナは、呆然と手のひらの林檎を見つめていた。
(ハルト……総裁……? ハルトが……? そんな……嘘でしょ……?)
ハルトが、鉄道という巨大な乗り物を造り、王都の何万人もの人々に新鮮な果物を届けている?
そして自分は今、そのハルトが運んできた林檎を、恵んでもらって生き延びようとしている……?
ぐううううっ、とエレナの腹が激しく鳴った。
プライドよりも、理性よりも、本能が勝った。
エレナは両手で林檎を掴み、泥に塗れた口元へと運んで、皮ごとむさぼり食った。
シャクッ……!
口いっぱいに広がったのは、瑞々しい果汁と、暴力的なまでの濃厚な甘みだった。
信じられないほど甘い。
かつて王都の一流レストランで食べたどんなデザートよりも、瑞々しく、生命の息吹に満ちていた。
「う……うまい……! おいしい……っ! うあああああっ、おいしいよぉぉぉぉっ!!」
エレナは人目も憚らず、しゃくりあげながら泣いた。
涙と鼻水が泥と混ざり合い、林檎の果汁とともに喉へと流れ込んでいく。
自分たちを追放した男が、世界を豊かにしている。
自分たちを見捨てた男の恩恵によって、自分は今、命を繋ぎ止めている。
これほどの皮肉があるだろうか。これほどの屈辱が、この世に存在するだろうか。
――その時であった。
「おいおい、見ろよ。路地裏で犬みたいに林檎をかじってる汚い女がいるぜ」
大通りから、豪奢な毛皮をまとった若い貴族の男たちが、嘲笑いながら路地を覗き込んできた。
エレナがびくりと肩を震わせて顔を隠そうとしたが、遅かった。
「……待てよ? あのボロ布の隙間から見える金髪……それに、あの足のタトゥーは闇ギルドの借金紋か?」
「おい、まさか……あいつ、元『聖女』のエレナじゃないか!?」
「ぎゃはははは! 本当だ! あのSランクパーティ『白銀の流星』の看板娘だったエレナ様だ!」
貴族たちの下品な嘲笑が、路地裏に突き刺さった。
「無能な雑用係を追放した途端、ダンジョンで惨敗して夜逃げしたっていう伝説のバカパーティか!」
「借金で聖剣も売り払い、最後は聖女がスラムで物乞いとは傑作だな! おいエレナ、一曲踊ったら銅貨の一枚でも恵んでやるぞ! ほら、踊れよ!」
バシャァッ!!
貴族の一人が、足元にあった泥水の水たまりを靴先で蹴り上げた。
跳ね上がった黒い泥水が、エレナの頭から無残に浴びせかけられる。
かじりかけの林檎が手から滑り落ち、泥水の中にポチャリと沈んだ。
「きゃははは! 泥まみれの聖女様だ! お似合いだぜ!」
嘲笑いながら去っていく貴族たちの背中を、エレナは泥水の中に両手をついたまま、虚ろな目で見送るしかなかった。
怒りも、憎しみも、もはや湧いてこなかった。
あるのはただ、底なしの暗闇と、自らが招いた因果応報の冷たい感触だけだった。
「ハルト……ハルトぉ……助けてよぉ……」
泥水に沈んだ林檎の欠片を拾い上げ、震える唇で吸いながら、元聖女は壊れた人形のように泣きじゃくり続けた。




