↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
31/70

第31話:一方その頃、王都のスラムにて

神聖ルクセンベルク帝国の帝都――華やかな白亜の宮殿や豪奢な大通りから何重もの路地を隔てた、陽光すら届かぬ暗がり。

 腐敗した生ゴミの饐えた臭いと、汚水の淀んだ悪臭が鼻を突く王都の最底辺――『下層スラム街』。

 崩れかけた泥レンガの壁に囲まれた、天井の抜けた掘っ立て小屋の隅で、かつて大陸全土にその名を轟かせた男が、泥まみれの襤褸切れを被って震えていた。


「くそっ……! くそがああああっ! なんで俺がこんな目に遭わなきゃならねえんだッ!」


 アーノルド・フォン・レオンハルト。

 かつて『歴代最強の勇者』と讃えられ、純白のマントと白銀の鎧に身を包み、人々から惜しみない歓声を浴びていた男である。

 だが現在の彼に、その輝かしい面影は微塵も残っていなかった。

 金髪は油と垢でドロドロに固まり、頬は痩せこけて土気色に変色し、充血した瞳の周囲には黒々とした隈が張り付いている。

 羽織っているのは、ゴミ捨て場から拾ってきた穴だらけの麻袋。

 その震える手には、かつて神から授かったと豪語していた『聖剣』の姿はなかった。手にあるのは、中身の抜けた安酒の瓶だけである。


「おい、ガイル……! 酒だ! 酒を持ってこい! 喉が渇いて死にそうだ!」

「……あるわけないだろ、馬鹿野郎が」


 小屋の反対側の湿った藁の上で、膝を抱えていた男が、憎悪に満ちた声で吐き捨てた。

 かつて『神童』と呼ばれた天才宮廷魔導士、ガイルである。

 自慢だった絹のローブは破れ、魔法の杖は借金のカタとしてとっくに差し押さえられていた。

 ガイルの指先は飢えで痙攣し、青白い爪を狂ったように自分の腕に食い込ませている。


「酒どころか、今朝から水の一滴すら口にしてないんだぞ! 金なら全部、お前が昨日の博打でスッただろうが! この穀潰しの無能が!」

「なんだと貴様ッ!? 俺に向かって無能だと!? 俺は選ばれし勇者だぞ! 貴様ごとき三流魔導士が口を利いていい相手じゃないんだよ!」

「勇者だと!? 笑わせるな! ギルドを除名され、爵位も剥奪され、借金取りに追われてネズミのように下水溝に隠れている勇者がどこの世界にいるッ!?」


 二人の怒声が、湿った小屋の中に木霊した。

 かつて栄華を極めたSランクパーティ『白銀の流星』の崩壊は、あまりにも急速で、そして無残なものであった。


 発端は、あの『原初の迷宮』深層での敗走であった。

 ハルトを追放したことで補給も索敵も破綻し、魔獣の群れに無様に追い散らされた彼らは、命からがら迷宮を脱出した。

 だが、待っていたのは地獄の現実であった。

 迷宮の踏破依頼を一方的に放棄したことによる、冒険者ギルドからの天文学的な『違約金請求』。

 さらに、彼らを後援していた貴族や商人たちは、敗北の噂を聞きつけるや否や手の平を返し、それまで貸し付けていた装備代や滞在費の一括返済を迫ってきたのだ。


『勇者様、話が違うではありませんか! 迷宮の秘宝を持ち帰る約束で前払いした一千万ゴルド、耳を揃えて返していただきましょう!』

『おい、聖剣の修繕費と最高級エリクサー十本分の代金、三千万ゴルドを今すぐ払え! 払えないなら屋敷も家財も全部差し押さえだ!』


 傲慢に散財を繰り返していた彼らに、貯金など残っているはずがなかった。

 王都の一等地に構えていた豪邸は一瞬で競売にかけられ、最高級の白銀の鎧も、ガイルの古代魔導書も、すべて借金取りに奪われた。

 それでも借金は減らず、最後には冒険者ギルドから「重大な契約違反および債務不履行」として、Sランク冒険者資格を剥奪され、永久除名処分が下されたのである。

 さらにアーノルドは、残った聖剣の柄の貴金属部分すら自分で削り落とし、闇街の質屋に二束三文で売り払って安酒と博打に溶かしてしまっていた。


「……う、うう……ううっ……」


 小屋の暗がりから、低くすするような泣き声が漏れた。

 頭から薄汚れたボロ布を被り、膝を抱えて丸まっていたのは、かつて『王都の聖女』と持て囃されたエレナであった。

 透き通るような白磁の肌は垢と泥に汚れ、美しかった金髪はバサバサに傷んで埃を被っている。

 彼女の足首には、借金取りの闇金融業者によって焼き印のように刻まれた、逃亡防止の隷属紋が赤黒く腫れ上がっていた。


「どうして……どうしてこんなことになっちゃったの……? 私、聖女よ……? みんなから愛されて、綺麗なドレスを着て、美味しいケーキを食べて……拍手されるはずだったのに……」

「うるせえ! 泣くな女! 耳障りだ!」


 アーノルドが空の酒瓶を地面に投げつけ、ガシャリと音を立てて砕け散った。


「泣いたって金も飯も湧いてこねえんだよ! おいエレナ、お前外に出て客を取ってこい! その顔ならスラムのゴロツキ相手でも銅貨の数枚くらい稼げるだろうが!」

「な……なんですって……!? この汚らわしい野蛮人! 誰のせいでこんなことになったと思ってるの!? 全部、あなたがハルトを追い出したからじゃない!!」


 エレナの口から飛び出したその名前に、小屋の空気がピシリと凍りついた。


「……ハルト、だと?」


 アーノルドの顔が、怨嗟と屈辱で歪む。


「あいつのせいにするな! あいつはただの荷物持ちだ! 無能な雑用係だったんだよ! 俺たちがいなきゃ何もできなかった寄生虫だ!」

「寄生虫だったのは、私たちの方だったんじゃないの……!?」


 エレナが金切り声を上げて叫んだ。

 その瞳から、止めどなく涙が溢れ落ちる。


「ハルトがいた時は、どんなに深いダンジョンに潜っても、お腹が空くことなんてなかった! 喉が渇くことも、泥で汚れた服を着ることも、寝床が冷たくて震えることもなかった! 全部……全部あいつが、私たちが寝ている間に食事を作って、荷物を運んで、武器を手入れして、安全な野営地を確保してくれていたからじゃない!!」

「だ、黙れ……!」

「それを……『お前は何の役にも立っていない』『戦えない無能は追放だ』って……! 追い出した途端にこのザマよ! ハルトがいなくなって、私たちは一日たりともまともに生きられなかったじゃないのッ!!」


 エレナの叫びは、アーノルドとガイルの痛いところを正確に抉り抜いた。

 二人は何も言い返せず、ただ屈辱に唇を噛み締めるしかなかった。

 かつて見下し、嘲笑い、ゴミのように捨てた男。

 その男こそが、自分たちの命を、日常を、栄光のすべてを底から支えていたのだという耐え難い真実が、いまや骨身に染みる冷気と飢えとなって彼らを苛んでいた。


「……くそっ……! ハルトの野郎……今頃どこで野垂れ死んでやがる……! あいつも俺たちと同じように、泥水をすすって惨めに死んでいればいいんだ……!」


 アーノルドは血走った目で床を睨みつけ、呪詛の言葉を絞り出した。

 己の転落を受け入れられない男は、追放したハルトもまた自分と同じ地獄に落ちているはずだと、哀れな妄想に縋るしかなかった。


 だが、彼らはまだ知らなかった。

 自分たちがゴミ箱を漁り、ネズミに怯えて震えているその時――。

 追放されたハルトが、大陸の歴史を塗り替える巨大な鉄道帝国の総裁として君臨し、皇帝や大賢者すら平伏させる圧倒的な覇者となっていることを。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。